随談第270回 片岡孝夫の森蘭丸

毎週土曜日の朝は、チャンネル37の時代劇チャンネルで大川橋蔵の銭形平次を5回分ずつ放映するので、前夜の内にビデオ録画をセットしておく。BS放送や日本映画チャンネルなどで放映した古い映画を録画すると、1時間分程度テープに余りが出ることがよくある。それを利用して、一回分だけ録画しておいて、遅い朝食を取りながら眺めるのである。どういう内容のものが映っているかはそのとき次第で、面白いときもあればつまらないときもあるが、何、筋よりも橋蔵の役者振りを見るのが楽しみだからである。(ついでに舟木一夫の歌う主題歌を聴くのもオタノシミだ。)端正で軽みのある立ち居振る舞い、世話の味、紛れもない、若き日菊五郎劇団ではぐくんだ芸がそこにある。昭和40年代から50年代のものだが、当時、戦前からの歌舞伎の見巧者で、六代目菊五郎の芸を偲ぶには橋蔵の平次を見るのが何よりだというのを持論にしていた老人があったっけ。

さて、今朝も例によって平次を見終わってVTRをOFFにすると、思いがけないモノクロ画像が映っている。昭和四十年の大河ドラマ『太閤記』の、本能寺の変の回である。新聞のテレビ欄を確かめると、NHKアーカイヴズで先日亡くなった緒方拳の追悼含みでの放映らしい。だが実を言えば、『太閤記』はたしかに緒方を一挙に全国区級の有名人に押し上げた人気ドラマだが、本能寺の変のこの回は緒方の出番は少なく、もっぱら信長役の高橋幸治に焦点が当っている。当時高橋の信長はブームのさなかにあって、信長延命を訴える視聴者の要望で、何回分か本能寺まで話を引き伸ばしたという噂があったものだ。この回も、奇襲を受けた信長サイドの様子が、ちょっと珍しいぐらいに映し出される。さて、話はそこからである。長々と映し出される信長の身辺間近、森蘭丸がときに甲斐甲斐しく、ときに毅然として控えている。その蘭丸役が、若き日の片岡孝夫というわけだ。もちろん、当時もリアルタイムで見てはいたが、俄然、四十余年前の記憶が甦った。

当時、片岡孝夫という回文みたいな名前は、ようやく、東京にも聞こえ始めたばかりだった。私がはじめて孝夫を見たのは、その前年十月の東京オリンピックのさなか、東横ホールの花形歌舞伎が『仮名手本忠臣蔵』を通し上演したときで、先の権十郎が先輩格として大星をつとめ、あとは現菊五郎がまだ丑之助で判官、先の辰之助の左近が勘平、現左団次の男女蔵が師直、といった当時の東京方の花形連にまじって、秀太郎と孝夫兄弟が関西から参加していた。秀太郎は八段目の小浪だったが、孝夫の役は道行の伴内ひと役。これが、その頃の若手群像のなかでの孝夫の居場所だったわけだ。その後、やはり東横ホールで、水木京太の『殉死』という作で、いま思えば、仁左衛門がいま大星や熊谷などで見せる「ますらをぶり」の原形のようなものを発揮したり、『義賢最期』をやったりするようになるのだが、しかしこの当時の東京に、片岡孝夫を知っていた歌舞伎ファンははたしてどれほどいただろうか? NHKの中にも、当時部内に具眼の士がいたのに違いない。

ところで、この蘭丸は記憶していたより出番も多く、なかなか悪くないが、いまの目で見てなんとも興味深いのは、この中に仁左衛門の原形が紛れもなく見て取れることである。つまり、いまも言った仁左衛門の「ますらをぶり」である。

随談第269回 今月の舞台から・一押し尽し

今月は豊漁の月である。東京三座、各座に推奨ものの芝居がある、人がいる、演技がある。あまり多いから、吉右衛門、玉三郎、菊五郎、仁左衛門、勘三郎といったところは省く。

歌舞伎座からは、菊之助の勝頼である。近来の勝頼といっていい。お父さんの若いときよりもずっといい。菊之助は、海老蔵みたいに、良くも悪くも、ぎょっとさせるようなことを言ったりしたりしないから、話題になることも少なめで、割を食っているが、役者としての聡明さをもっている。(海老蔵だって、役者としての頭は悪くないが。)菊之助を襲名して売り出した前後、祖父梅幸の若き日はかくもやあらんと思ったことがあるが、そっくりさん的な意味ではともかく、その資質の最もすぐれたところは今もって梅幸ゆずりなのだということを、この勝頼は確信させてくれた。(梅幸といえば、今月は勘三郎が塩冶判官で、梅幸にまねび学んだ真骨頂を見せている。)勝頼という役は、何もせずにすっとしていて、ああいいなあ、と思わせるかどうかが勝負である。梅幸という人はそういう役が絶品だったが、菊之助の勝頼も、レベルはともかく、まさにそういう勝頼である。

国立の『大老』からは候補が多いが、まず梅玉の長野主膳と魁春のお静の方である。もっともこの二人は第一線クラスだが、平素割りを食っていることが多いように見受けるので、敢えてここに挙げることにする。どちらも余人では替えられない、すなわち平素控えに控えた個性が、いま時と所を得て燦然と輝いたような名演である。梅玉のクールさがこれほど生きた役もない。冷徹というのとは違う。最後に直弼から「そちも近江にいた方が仕合せであったのう」と言われて「はい」と答える、その一瞬に、この冷静無比な男にも人生のあったことを我々は知る。いろいろな長野主膳を見てきたが、こういう主膳を見たのははじめてである。魁春のお静も、まさに直弼の心に棲む可愛い女であって、こういう処女の泉のごとき永遠の女人像というのは、女優には表わすことのできない、歌舞伎の、それも近代歌舞伎の、女形の芸の生み出したものに違いない。

『大老』では他にも、仙英禅師の段四郎を見ていると、いまやこの人はまさしく「名優」の名に値する人と思うほかないし、歌六・歌昇兄弟の穏健派と過激派に分かれた兄弟の水戸藩士、歌六はさらに水戸老公を演じて初演の故延若を抜く好演である。

平成中村座では、さっきは省くと言ったものの、勘三郎の勘平の、型と様式と自然とが渾然となった境地はただならないものがある。凄い、と正直、思った。「六段目」が終わって外へ出るとき、ああ面白かった、と顔を火照らせて独りごちている少年を見かけたが、こういう反応を見ることは滅多にあるものではない。

仁左衛門の大星は予測の内とすれば、驚きという意味で、橋之助の五役、とりわけ師直を挙げておこう。一言で言うなら、時代物役者としての品格と骨格の大きさである。思えばかつての若き日、故松緑がこの人を指名して『千本桜』の知盛を国立でさせたことがあった。二枚目の道を進む人と思っていたのでびっくりしたものだが、もしかしたら松緑は、夙に橋之助の本質を見抜いていたのかも知れない。女形の大役四役、とりわけ「九段目」のお石で仁左衛門・勘三郎に拮抗した孝太郎の秘めたる実力も相当なものである。

随談第268回 野球談話ふたたび

王貞治氏が引退し、清原が現役引退をして、昭和の野球が終ったとか、昭和の野球の匂いのする最後の選手だったとか、しきりに言われているらしい。まあ、その通りだろうが、清原の場合は、そのことにやや人為的にこだわった気配があって、それを思うと少々痛々しい。番長だの何だのと必要以上に言われ、自分でもそれをことさらに意識したかのような言動を取るのを見聞きするのは、あまり楽しいことではなかった。

西武時代はすばらしい選手だった。折々テレビに映る当時のフィルムを見ても、いい人相をしている。どう考えても巨人に移ったのがよろしくなかった。もちろん不運もあるが、古フィルムを見ても覿面に人相が悪くなった。怪我続きは同情に値するとしても、焦りやらプライドやら自意識過剰やらで、自縄自縛になってもがく姿を見るのは無惨だった。巨人病の犠牲者というほかないが、自ら求めての結果なのだから、ここはあまり同情しにくいと言わざるを得ない。

かつての金田正一や張本にしても、私にとってはいまなお、国鉄の金田であり東映の張本であって、晩年の巨人時代はいらない、というのが正直な思いである。もっとも彼等の場合は、巨人に移ってからもレベルを落さず活躍できたから、まあよかったようなものだが。それにつけても、他のチームで輝かしい実績を残しながら、晩年に至って巨人入りして、見る見る輝きを失っていった選手がどれほどいることだろう? まあそれぞれ何らかの事情があって巨人入りするのだろうが、どうして巨人に入ってみすみす晩節を汚すのだろうと、正直、思わないではない。

しかし清原の場合、救いは、夏に今シーズン限りの引退を声明してから、憑物が落ちたようにいい顔になったことだ。年齢や、その間の苦労を顔に刻みながらも、かつてのよき人相が甦っていた、ということは、つまり、本来の自分を彼は失っていなかった、ということなのだろう。西武時代は楽しい思い出ばかり、最後に仰木監督にオリックスに誘ってもらわなかったら恨みを持って終ることになっていたろうという最後の言葉は、プラスマイナスを差し引きして、結局、この人は「聡明」というものを失わずにいたのだということを物語っている。それにしても、あのときの仰木のおとこ気というのは水際立っていた。番長などといわれてマッチョの臭みを芬々とさせていた清原より、仰木の侠気に素直に応じて感謝の念を忘れない清原の方が、はるかにすがすがしいし、且つ泣かせるに足る。

それにしても思うのは、自分がかくありたいと思う自分を達成することの難しさである。思うに清原は、かくありたいと思う自分に絶えずこだわらなくてはいられない生き方を選んだのだろう。しかしその、かくありたいと思う自分というものも、そのときどきの現実の自分次第で、いろいろに姿を変えも歪めもするのだ。二十余年の波乱に富んだ清原の野球人生は、そのことを私に思わせるだけのものを、最後に示してくれた。私はこれまで、清原という選手に格別な関心を持ったことはなかったが、最後になって、こういう文章を書く動機を与えてくれたわけだ。そもそも、清原のことでブログを書くなど、考えてもいなかった。一代男の最後は、たしかに悪くなかった。