随談第251回 観劇偶談(その116) 澤村藤十郎の特別公演

季節の逆戻りしたようなうすら寒い日だったが、その一夕、紀尾井小ホールで澤村藤十郎が、十年前脳梗塞で倒れて以来はじめて、公の舞台に出演する公演があった。『平家物語の夕べ』という、この日で十七回を数える公演の一環としてであったが、「澤村藤十郎舞台復帰に向けての特別公演」と銘を打ってのこの公演には、もちろん、格別の意義がある。

ちょうど十年前の1998年の夏、わずかな閑を得て海外に憩った戻りの藤十郎が、成田から自身ハンドルを握っての帰途、突如記憶を失って、以来いまも、その二十日間は空白のままだという。三十を越える病院を尋ねたが、命は保障しても舞台は引退をという医師もあったと聞く。ちょうどそれは、五十代から六十代という、役者として最も実り多い季節を迎えようとしている時だった。無念の思いは察するに余りある。それを克服し、乗り越えようとした藤十郎の不屈の意志の強靭さもまた、驚嘆に値する。

たまたま私は、それから二年後、『21世紀の歌舞伎俳優たち』『新世紀の歌舞伎俳優たち』という姉妹のような二冊の本を出す機会に恵まれた。前者は、当時の『演劇界』に一年間連載した俳優論を主軸にしたものだったが、幸い好評だったので今度は書き下ろしでもう一冊ということになった。誰を書くかの選択は、すべて私の一存にある。藤十郎が病に倒れ、難しい状況にあることは知っていたが、私としては当然、対象とする約二十人の中に藤十郎を数え入れた。姉妹編二冊で当代の代表的な歌舞伎俳優を論じようというのに、この人を数えないことははじめから念頭にないことだった。

当然の礼儀として、趣旨を説明し了承を貰う手紙を一人ひとりに充てて書いた。藤十郎から電話があったのはほんの数日後だった。それまで、個人としての接触はまったくなかったにも拘わらずである。冬晴れの一日、藤十郎の住むマンションの見晴らしのよい一室で、病に伏してからの経緯と再起を目指す心境をつぶさに聞いたときのことは、『新世紀の歌舞伎俳優たち』に書いた通りである。その後、私が司会役をするシンポジウムに出席してもらったこともあった。プロデュースや演出に非凡な才能を持つ藤十郎が、直接舞台には立たないながらも、そうした方面の仕事を精力的に行なっていることは、知る人は知っていよう。今度の『平家物語の夕べ』も、そうした活動の中から生まれた仕事だった。

正味三時間に及ぶプログラムの中で、『俊寛』を映像作品にしたDVDからの一部が上映されたが、それも、演出家としての藤十郎の作品である。秀太郎、段四郎、三津五郎といった人たちが出演している。今度の公演の眼目である『赦(ゆるし)文(ぶみ)』の件の朗読も、実はすでにDVD作品として藤十郎みずから出演したものを、実際に舞台で演じようというのだった。

演技はすぐれたものだった。朗読といっても単なる本読みではなく、作曲の杵屋勝国、作詞の望月太喜雄以下の出演で、舞台芸術としての演出もきちんとなされている。何よりも感服し、また嬉しくも思ったのは、藤十郎が実に素晴らしい声を聞かせてくれたことである。「地」を語るだけでなく、清盛、重盛、教盛という人物たちを「コトバ」として演じるのだ。それは、十年のブランクを感じさせないというだけでなく、その間に培い、深めた、人としての藤十郎の成熟と、役者としての藤十郎の成長をも物語るものだった。

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随談250回 ひさしぶり相撲随談

琴欧州が突如目覚めた如く優勝して、ようやく朝青龍・白鵬に独占されていた制覇者リストに、割って入る者が現われた。よろこばしいことである。文字通り割って入ったのだから、この優勝には価値がある。あの長身で、四つ相撲が取れるのだから、琴欧州の復活が本物なら、朝・白両横綱にとって、脅威となることは間違いない。

優勝を決めた後のインタビュウもよかった。人柄のよさが、顔にも応答の仕方にもあらわれている。いかにもGENTLEである。気は優しくて力持ち、というなつかしい言葉を思い出させる。思えばこの言葉は、相撲というものが、一般民衆に受け入れられ、親しまれる一番根底のところに触れている。「お相撲さん」という、憧れと敬意と親近感とがブレンドされた呼称にこそ、相撲が何より大切にしなければならないエッセンスが凝縮されている。どんなに隆盛を極めようと、「おサッカーさん」とか「お野球さん」というわけにはいかない。「お相撲さん」の「お」の字にこそ、相撲がもし本当に国技なら、国技たるべき根拠が隠し味のようにひそんでいる。つまり、気は優しくて力持ち、とは、男というもののあるべき姿、あらまほしいあり方の、もっとも素朴にしてもっとも端的な表現であり、それを具現したものが「お相撲さん」なのだ。琴欧州は、気は優しくて力持ちの上に、ハンサムと来ているのだから、男としてこの上はないようなものだ。(私の知人に、映画俳優ならゲイリー・クーパー、歌舞伎なら仁左衛門、相撲なら琴欧州という女性ファンがいる。)

今場所の琴欧州の相撲は、朝青龍との一戦が白眉であり、あの一戦に琴欧州のすべてが凝縮されていた。右上手を浅めに取って引き付け、二、三合揉み合ってから左前褌を取ったところで、事実上の勝敗は決した。負けた朝青龍が支度部屋に帰る途中でモニターテレビを、左前褌を取られたところまで見て、後は見ずに行ってしまったそうだが、むべなるかなという気がする。ああいう相撲をとられたのでは、朝青龍としても手の打ちようがないに違いない。

朝青龍と白鵬を、以前このブログで、実際には見たことのないにもかかわらず、音に聞く戦前の玉錦と双葉山になぞらえたことがある。相撲ぶり・タイプ・人柄、いかにも好対照で、風貌にもそれぞれ一脈、彷彿とさせるものがある。この一月場所のふたりの決戦はいかにもその精華だったが、それに琴欧州が割って入ることが実現したら、三様の三者が鼎立することになる。双葉・玉の時代には、武蔵山とか男女ノ川といった長身の横綱もいたのだが、実際には対抗できるほどの力がなかった。戦後の栃若時代の末期、朝汐がやや拮抗しかけて、この人は不思議にも年に一度、大阪場所になると栃若を抜いて優勝したが、結局、三者鼎立とまでは行かなかった。しかし、栃若とはまったく違うタイプの強豪として、時に面白い存在ではあり得た。(なにしろ、東宝映画『日本誕生』で手力男の命に扮して、原節子の天照大神や乙羽信子のアメノウズメと共演してピタリという体躯・風貌の持主だったのだ。事実、ある時大関の栃光を一撃の下に吹っ飛ばして唖然とさせ、放送したアナウンサーに、『古事記』の英雄を見るようだと言わせたことがある。)琴欧州はまた違うタイプだが、是非、鼎立時代を到来させてもらいたい。

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随談第249回 観劇偶談(その115) 今月の一押し候補たち

近頃、山崎権一が面白い。今月の役は歌舞伎座團菊祭の『幡随長兵衛』の序幕村山座の劇中劇に出てくる緋の衣を着た慢容上人だが、これがなかなか秀逸である。とぼけていて、適度に立派で適度にやすっぽく、覚束ないようでいながら、意外に丁寧にやっている。

そもそもこの権一というひと、先代権十郎のたったひとりの弟子で、とぼけた風貌といい、落語の『鼻欲しい』さながらに鼻に抜けたようなセリフといい、まさしく記憶に残る役者であることは間違いない。この人がいなくなったらどんなにか寂しくなるだろう。安いようでいながら品も悪くない、『七段目』の九太夫にはやや物足らず、十一段目討入りの場の師直ならぴったり、でしゃばらず、さりとて霞んでしまいもせず、それどころかユニークな個性でセリフをひと言いうだけで、ああ、やってるなと、誰しも微笑したくなる、というあたりが、いかにも山崎屋権十郎の弟子らしい。

『千本桜』渡海屋・大物浦の海老蔵もチャーミングである。丸本物になると、音程が下がらず上ずるようなセリフの癖が耳にも鼻にもつく海老蔵だが、不十分ながらに、上ずる感じがなくなったのには、オヤと耳を奪われた。「渡海屋」の銀平が、ともかくもそれらしい人物になっていたのはその賜物である。「大物浦」の知盛になって海老蔵ならではの魅力が全開するが、義太夫狂言『千本桜』というより、『鳴神』の荒れでも見ているようだ。すなわち「海老蔵十八番・大物浦」の荒事である。しかし知盛を生けるがごとく見るかのようであるという一点に限れば、誰の知盛よりも知盛らしい。そこが「異能役者」海老蔵たるところである。(別の意味でだが、その人らしいというなら、『幡随長兵衛』で彦三郎の近藤登之助が随一だろう。これは番外だが、友右衛門が義経をやっていて、無駄に齢を取っていないところをみせる。それにしても、友右衛門がひとつの役でこんなに長い時間、舞台にいたことってあったかしらん。)

演舞場の『毛谷村』の亀治郎のお園も面白い。お園の女武道としての性根をびっくりするほど強調してみせる。錚々たる女形たちのお園をこれまでいろいろ見てきたが、こんなお園は見たことがない。では規格外かといえば、そうでもない。亀治郎の頭脳プレイと、それを実現して見せる技巧の裏づけが実に雄弁だからだ。何よりいいのは、染五郎と二人合わせていかにも似合いの夫婦であることで、『三社祭』でも、ただ元気に踊りまくるのとは違った風情を醸しだしているのが秀逸である。二人にコンビ結成を勧めたい。半世紀前の染五郎・団子が、いまこうして、代替わりして蘇ったかと思えば、私などには感慨深い。

だが、今月の一押しということになれば、私には別案がある。『毛谷村』での錦之助の京極内匠である。まさに快打一番。その男ぶり役者ぶり。水の垂れるよう、と昔の人の言ったのはこういうことかと頷かれる。ついこないだまでの、ただのっぺりした信二郎とは大違い、これでこそ、「中村錦之助」である。

富士の山は一日にして出来た、というが、思えば昨春の襲名この方、めきめきと力をつけてきていたのは、心ある者なら気づいていたところである。よき潮時に、意義ある襲名であったことを、いまこうして自ら実証して見せた錦之助のために乾杯しよう。

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随談第248回 観劇偶談(その114)吉之丞を見る楽しみ

いま、歌舞伎を見る楽しみの随一は、中村吉之丞を見ることであるかも知れない。私たちが歌舞伎を知り染め見覚え、感覚として身に心に肌に馴染ませた、スタイルや色合いやリズム感や、要するに歌舞伎を見て快適と感じる、歌舞伎ならではの知覚感覚を、いま誰よりも満足させてくれるのは、思えば吉之丞を措いてはない。

若いときから、吉之丞は歌右衛門に似ているといわれていた。その長身、少し猫背気味で前かがみになった姿勢や身のこなしや、発声やうねるようなセリフのねばりがそう感じさせるのだが、老来、近年にいたって淡々剽々、どことなく浮世ばなれした風韻が、おのずからなるユーモアを感じさせるようになった。気品があり丸本物を演じて格高く、それでいながら軽味のある具合が、何ともいえない。今月の新橋演舞場の開幕に、染五郎の六助と亀治郎のお園で『毛谷村』が出ているが、そこで吉之丞演じる老母お幸が、まさしくその好例だ。カットされることも多いお幸の入り込みを出したのは、吉之丞があればこそといえる。

押しかけ嫁入りならぬ、押しかけ姑である。その気品、おのずからなるそのユーモア。格に入りながら格に捕らわれず、楽々と芝居をしながら、突っ込むべきは充分突っ込んで演じる。金包みを、ヒョウと六助に向かって投げつける。と今度は、六助が投げ返してくるのを、ヒョウと受ける。その意外性が、吉之丞自身のユーモアと渾然とひとつになって、もう、たまらなく面白い。(六助役の染五郎も、なかなかよく受けている。)開演間もないくだりだから、ちょっと遅刻したらもう見られない。大損をすることになる。

ひと昔、いやふた昔まえ、尾上多賀之丞という高齢のお婆さん役者がいた。若いころ、浅草の小芝居のスターだったのを、六代目菊五郎に女房役者にと見込まれて、大歌舞伎の人となった。しかし戦後われわれが、いやもっとまえの世代の観客にとっても、多賀之丞といえばお婆さん役者だった。「六段目」のおかやを、この人は生涯に何度演じただろう。婿の役の勘平は、六代目菊五郎にはじまり、すくなくとも三世代に優に及んだ。八十歳の高齢で演じた『加賀鳶』のお兼の、婆ア按摩のなんとも言いようのない色っぽさ。『伊勢音頭』の万野の、見栄の場所に巣食っている女ならではの色香。どちらも、いやな女の役でありながら、芸そのものは品格があって卑しくない。世話物ばかりではない。梅幸が『鏡獅子』を踊れば、幕開きの老女は多賀之丞に決まっていた。その「白」の老女の鬘の、なんと品格のあったことか。

多賀之丞は、もともとの芸のよさに加えて、第一線級の諸優よりひと時代古い歌舞伎を身につけている脱俗の境地が、えもいわれぬ風雅や、生きることの哀歓を、おのずから見る者に感じさせたのだと思う。最近の吉之丞を見ていると、別に芸風が似ているわけでもないのに、多賀之丞を思い出す。多賀之丞ほど高齢なわけではないが、ある境地まで達した芸がおのずから醸しだす風韻が、通じ合うものを感じさせるからだろう。

今月のお幸は、そのほんの一端である。何の役をしてもおもしろい。芸が冴え渡っている。敢えて言う。いま、私がだれよりも愉しみにして見る役者は、ほかでもない、中村吉之丞である。

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随談第247回 志村アナウンサーの訃報

志村正順アナウンサーの死を、新聞のごくごく小さい記事で知った。小さな写真がつき、簡単ながらも往年の活躍の一端を業績として紹介する記事がついていたから、名前と肩書と葬儀の日程だけしか載らないのに比べればまあまあともいえるが、正直、ひと目見てまず思ったのは、エ、これっぽっちの扱いでしかないのか、ということだった。

いまの新聞社の現役の人たち、その読者の大多数、ということから類推すれば、こういうことになるのかも知れない。要するに、その活躍の時代をリアルタイムで知らないのであり、従って関心がないのだ。そういうものさ、と言ってしまえばそれまでなのだ。

が、それにしても、と思わないわけには行かない。私の「常識的判断」からするなら、つまり私がいま新聞社の現役としてそれ相応の立場にあったなら、記事はせめて四段か五段ぐらいの扱いにして、別欄にどなたかの談話なり、追悼か思い出の文章を載せるかするだろう。それぐらいの人なのだと思う。

数日後、東京新聞では一面の「筆洗」欄で扱ってくれた。少しだが溜飲が下がった。他紙のことは知らないが、何らかの扱いをしてくれていれば幸いだ。

昭和20年代から30年代にかけて、というのは、ラジオの全盛時代があっという間にテレビに切り替わってしまった時代だが、そういう時期に、志村アナウンサーは最も盛りの季節にあった世代である。戦前の六大学野球の実況放送で名をはせた松内則三アナとか、ベルリン・オリンピックの実況で「前畑がんばれ」と叫んだ河西三省アナとかは、戦後育ちの私の年代の者にはすでに伝説上の存在だったし、ヘルシンキ・オリンピックの放送の帰途客死した和田信賢アナなどは、むしろ『話の泉』の司会などで、大人向きの存在のように感じられていた。(その死に、「話の泉」の番組の中で、レギュラー出演者だったサトー・ハチローが追悼の自作の詩を朗読したのを覚えている。)志村アナにしても、テレビになってからでも活躍したが、その放送のスタイルからいって、ラジオにこそ本領があった人だと思う。そういう「時代」の人であり、その中で、最も斬新な放送のスタイルを作った人なのに違いない。

志村アナウンサーのほかにも、当時のNHKのスポーツ実況には、河原アナとか野瀬アナとか、名人芸を思わせる練達の放送技術をもった人たちがたくさんいた。河原さんは、派手で大衆的な人気も兼備していた志村アナに比べると、地味で堅実で、「通」向きの感じがして、そこがよかった。(ナニ、当時こちらは小学生だったのだが。)野球中継なら、「球は転々外野の塀」とか、強打者が「発止(はっし)」と打ったライナーを名手が「発止」と受けたり、相撲放送なら、「金剛力士のごとき大剛」羽黒山とか、「便々(べんべん)たる太鼓腹」の照国や鏡里といった常用句がいろいろあったが、思えば、この種の(いかにも教養の程を偲ばせる)常套句も、松内・河西時代から志村・河原世代のアナたちが作ったのだろう。

後年志村アナが、現役時代最も印象に残る放送は、という問いに答えて、体重が(今風にいえば)百キロそこそこの横綱栃錦が身長2メートルの大関大内山を首投げで破った一番で、大内山の巨体が弧を描いてもんどりうったのがいまも目に浮かぶ、と語るのを聞いたことがある。その実況中継は、私はラジオで聞いたが、場所後雑誌のグラビアで見ると、まさに志村アナの放送を聞きながら思い描いたとおりの光景が、連続写真で載っていた。

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