随談第240回 観劇偶談(その112) 今月の一押し 市蔵の平山武者所

『ヤマトタケル』の段治郎のことをあれだけほめた上に今月の一押しを書くのは屋上屋を重ねるようだが、それはそれとして、歌舞伎座の『熊谷陣屋』で平山をつとめている市蔵のことを書いておきたい。これが、すばらしい。

役者としての格が、ぐいと、大きく段を上がった。一言でいうなら、大人の芸、大人の役者になったのだ。なかなかよくやっている、というレベルから、これは本物だ、と思わせられる存在感を備えている。おとっつぁんそっくりだが、少なくともセリフに関してはおとっつぁんよりしっかりしている。いい役者になった。

大分前になるが、勘三郎がまだ勘九郎時代に初役で『籠釣瓶』の次郎左衛門をしたとき、一緒に立花屋へ上がりこんで、愛想尽かしをされると、恥さらしだなどと騒ぎ出す佐野の絹商人の仲間を市蔵がやって、あゝいまの若い役者にはこういう、野太いような厚かましいようなアクの強い男というのは、むずかしいんだなと、思ったことがある。市蔵のことだからまじめに役に取り組んでいるのだが、がっかりだった。劇評にもそのことを書いた。

と、それから数年して、勘三郎がまた『籠釣瓶』を出して、市蔵も同じ役で出た。オオと思った。見違えるほどよくなっている。欲をいえば切りがないものの、ちゃんと、佐野のお大尽に、自分の欲と都合でくっついたり離れたりしている、野太いあきんどのオッちゃんになっている。積み重ねた努力のあとが偲ばれた。

それ以来、わたしはそれまでにも増して市蔵ファンになった。畏敬の念すら、ひそかに抱くようになった。それからまた三年ほどあっての、今度の平山である。このイキでやっていったら、父親より役の幅は広いだろうから、本人にとってはもとより、歌舞伎界にとっても大いに慶賀すべきことになるのは間違いない。

亡き父の先代市蔵は、ついこの間といいたくなるほどの近い過去まで活躍していたから、ある年齢から上のファンにはまだくっきりと印象が残っている。決して、上手いという人ではなかった。どんな役のときでも、少し猫背ぎみに前かがみになって芝居をした。とりわけ癖の目立つのはセリフで、少し吃るような訥弁で、そうでなくても絶句をしているような感じでセリフを言う。声も、むしろ銅間声というのに近かった。こうした点では、息子はすでに親を抜いている。だが、本当の勝負はここから先にある。

市蔵がセリフを言うとハラハラしてね、と懐かしそうにその芸を語り合う。そんなファンを、先代はいまでも沢山持っている。むしろ欠点であったかもしれないその癖ゆえになつかしい。いや、まだ元気で活躍している時から、市蔵は、ひとになつかしいという気持を抱かせる役者だった。亡くなったとき、誰言うともなく、「片市十種」を考えようということになったが、それが、私のまわりだけでなく、方々で、そういうことが言われていたらしい。つまりそういうことを誰もが考えたくなるような役者だったのだ。

十種を書き並べるスペースがなくなったから、最後に私の「片市五種」を書こう。まず『一谷』の平山、『幡随長兵衛』の坂田金左衛門、『河内山』の北村大膳、蝙蝠安、『道明寺』の偽迎えの五種は動かないところ。もひとつおまけで、次点が『四段目』の薬師寺。

随談第239回 観劇偶談(その111) 『ヤマトタケル』

いままでスーパー歌舞伎のことをあまり書いたことがなかったが、今月の新橋演舞場で『ヤマトタケル』を右近と段治郎が昼夜に分かれてやっているのを見て、段治郎のことをちょっと書いておきたくなった。そのヤマトタケルがちょいとしたものだからである。

ずばり言って、いままでに見たヤマトタケルで一番よかった。つい三年前にも、同じように右近とふたり交互にやっているのだが、正直なところきわめて印象が希薄である。なかなかよくやっているな、というだけに留まって、もちろんそれだけだって大したことだが、役者段治郎として特に見るべきものといっては、格別なかった。が、こんどは違う。

ひとりの、歴とした俳優の誕生と言っていい。することに性根が通っている。ヤマトタケルという役の性根と、それを演じる段治郎という役者の性根とが、重なり合い、渾然とし、増幅し、ドラマの人物として舞台の上に立ち上がっている。作者の書いた「天翔ける心」と「傲慢の心」という「哲学」が、説明や解説やお説教でなく、ドラマの人物として生きているのを、こんどはじめて見たような気がする。戯曲の言葉が、これほど素直にこちらの心に届いてくることも、じつはこれまでになかった。

この芝居は、なんといっても猿之助の初演のときのが、いい意味にも悪い意味にも、断然、印象に強く残っているが、猿之助だと、こうした「哲学」や、その他方々にちりばめられている言葉が、直接に猿之助自身と重ねあわされすぎてしまい、劇として芝居として、素直に見ることが妨げられがちだった。(こちらもまだ未熟だったから、つい、いらぬ反発を覚えたりすることも、正直なところなかったとはいえない。だから半面としては、受け取り手の側の問題でもあるのだが。)だが、こんどの段治郎だと、そうした夾雑物が綺麗に拭い去られて見える。『ヤマトタケル』という「劇」を、だから、こんどはじめて、素直に見ることができたといっても、あながち過言ではない。

はじめの、小碓命のときなど、潔癖のなかに怒りや自責の感覚が秘められている具合など、十一代目團十郎を彷彿とさせるものすらあった。長身でいながら骨っぽいところがそう思わせるのでもあるのだが、しかし長身なのはいまに始まったわけではないのだから、これは、やはり段治郎の成長の賜物なのである。

一方の右近は、右近なりには進歩の跡を見せているが、(だからほめていいのだが)、いわばそれは予測の範囲内の進歩であって、いままで右近に対して抱いてきたイメージに変更を求められるようなものではない。その分、段治郎の「進化」の前に、割を食って見えることになるのは、致し方ない。しかし右近の名誉のためにひと言つけ加えておくと、もうひと役のタケヒコでは、段治郎に対して兄貴分たるところを見せている。つまり二役を演じ分けるという点で、役者として一日の長を見せたわけだ。

その他の人たちのなかでは、兄橘姫をやっている笑也に感心した。もうひと役つとめている出世役のみやず姫以上に、この大人の女性を掘り下げてつとめているところに、初演以来の二十年間の成長を雄弁に語っている。ヘタルベという役を、抜擢されて弘太郎とダブルキャストでつとめている猿紫という新人が、ユニークな個性を持っているのも目を惹いた。