随談第166回 観劇偶談(その77)浅草花形歌舞伎評判記

そろそろ芝居の話にとりかかろう。今月は三座で歌舞伎があるので、新聞評も浅草歌舞伎がはみだして「ステージ採点」という短評の扱いになる。その埋め合わせも兼ねて、浅草の花形たちの評判からはじめよう。

『義経千本桜』から「渡海屋・大物浦」と「すしや」を昼夜に分けて知盛を獅童、権太を愛之助、『身替座禅』を奥方だけを獅童・愛之助が昼夜で交代し山陰右京は勘太郎が通してつとめるというメニューは、浅草歌舞伎としてはかなりの重量級だが、しかしこれは英断である。初心の客が多いからというので軽いメニューで、というのは結局は当の初心の客をも逃がすことになる。熱愛的ファンが多い花形たちが、ボリューム感たっぷりの演目と格闘してこそ、ファンも本物をつかまえることになるのだ。

獅童にとっては、こんどの知盛こそ絶体絶命の生命線だと、私は思っている。もともと乏しい抽斗の中はもう底をつきかけている。昨秋の森の石松を見て、これはやばいなという気がした。何とかシガを隠せる題材を選んだまではいいが、演技がワンパターンになってしまっている。あの石松の演技は、テレビの『新撰組』と同じではないか。

歌舞伎俳優が歌舞伎の外で芝居をするとき、最低二つの条件のどちらかは達成してもらいたいと私は考えている。歌舞伎の役者って凄いんだ、と唸らせるか、それができないなら、せめて何かを盗んで帰ってくること。この二点である。転んでもただでは起きられないなら、外の仕事をする資格がない。

さてその知盛だが、まあとりあえずホッとした、というのが一番素朴な感想である。スケールの大きさを感じさせるのが獅童の長所のひとつだが、その長所がこの役に生きている。少なくとも、以前同じ浅草でやった「四の切」の忠信よりはいただける。第一に、役になっている。第二に、最後まで(それこそ初心の)観客を引っ張っていって、ちゃんと手ごたえを掴んでいる。荒削りは相変わらずだが、こういう荒削りは決して短所ではない。それに、浅草歌舞伎恒例の幕前の挨拶をつとめる獅童を見ていると、整然とした中に適当にフラもあり、スター性はなかなか捨てがたいものがある。

七之助が、典侍の局という女形の大役をやって、幼さはありながらもちゃんと役になっているのにも感心した。この辺が非凡なところだろう。

愛之助の権太はよかった。仁左衛門の指導というが、基本的には延若がやっていたやり方に更に工夫を加えたもののように思われる。しかし型の詮索などより前に、役をすでに我が物として消化しているのに感心した。手強さが必要な役の時の方が、芸が大人に見えるのが愛之助のおもしろいところだ。男女蔵の弥左衛門がちゃんと老け役になっているのにちょっと見直す。

『身替座禅』は勘太郎が曽祖父以来三代の当たり役をまずは勉強というものだが、ここでも愛之助と獅童の奥方ぶりがそれぞれ悪くない。愛之助のしんねりとコワそうな中年女性は客席の中にもいそうだし、獅童の長身でおデコで顎のしゃくれた具合が荒川静香に似ている。般若顔というのは、六条御息所以来、品格と知性ある女性の属性だから、こう言ったからといって荒川選手の悪口のつもりはさらさらない。

随談第165回 随談随筆(その5)年賀状

新年のはじめは、ごくのんびりと随筆と行こう。ここ何年か、年賀状は大晦日から元日にかけて書くことにしている。というと、そうそう、歳末の忙しい中で謹賀新年なんてそらぞらしく書いていられるか、年賀状は何時(いつ)幾日(いっか)までに投函せよ、なんてのは郵便局の都合にすぎない、賀状は正月になってから書くのが本当だ、などと大仰に同調してくれる人がいるが、べつにそれほど理屈を立ててそうしているわけではない。

池波正太郎さんは前年の三月ごろから賀状の準備にとりかかったそうだが、たしかに、挨拶というものは相手を本位にするものであって、だから新年の挨拶は新年に相手に届くようにする方が本当だろう。とはいうものの、ようやく世間も歳末気分に染まってくる大晦日から元日に賀状を書くというのも、はじめはやむを得ずにしたことだったが、やってみるとそれはそれなりに、真実味があって悪いものでもない。

賀状の形式は久しく、「新春御慶」とすこし大ぶりに、その下に、これは年ごとに正月にふさわしい俳句をこさえて、あとは住所電話番号に夫婦連名、その間に空白を広く取るように印刷したのを、毎年定型にしていたが、昨年は喪中であったのと、私自身の身辺に変化が生じた最初の新年でもあったので、「新春御慶」は寒中見舞いの挨拶にし、身辺の様子を知らせる文章をつらつらと書く、という形式にしてみた。

わたくしごとを長々と書くのはなんとなく気恥ずかしいような気がして、これまでしなかったのだが、頂戴する賀状の中に、毎年身辺のことを巧みに知らせてくれながらお人柄まで偲ばれて、あゝ、こういうのもいいものだな、というのがあって、そこから思いついたのだった。やってみると、お人柄はともかく、いつもよりなんとなく、反応があったような気配がある。そこで、「新春御慶」は復活して、今年もそれ式にしてみることにした。

「御慶」はもちろん落語の『御慶』の真似をしてみたいからだが、そのままだとちょいと気恥ずかしい。と思っていたあるとき、良寛展が三越であったのを見に行ったら、良寛の賀状に「新春御慶」というのがあるのを見つけて、頂戴することにしたのである。

例年は紅白歌合戦を聞きながら書き始めるのだが、今年は少し早めに身辺が片づいたので、午後から始めることができた。思いついて、落語のCDをかけた。ふだん原稿を書くときはクラシックにせよシャンソンその他にせよ、音楽を聴きながらということが多い。落語はやはり言葉だから、原稿を書きながらというには、ちょいと差し支える。しかし賀状の名宛を書きながらには、これはまことに快適である。

桂文楽の『富久』がなんといっても歳末にふさわしい。つぎに馬生の『お富与三郎』の「島抜け」を聞く。これは元の新橋演舞場の畳敷きの稽古場で三日続きでやったときのライヴで、私はこのとき三日通い詰めて現物を生で聴いている。堪能した。話を聴くというのはこういうことなのだ、と改めて思い知った。円生の『三十石』を聴く。彦六なんかにならない頃の正蔵の『年枝の怪談』を聞く。どれもかつて聴いたものばかりだが、いま聴くとこれほど凄いのかと、唸った。

年賀状はやはり大晦日に限る、か?

随談第164回 2回目の新年(ごあいさつ)

あけましておめでとうございます。

このブログも2回目の新年を迎えました。大晦日ぎりぎりの時点でのアクセス数が44303、一年前の同じ時点で9104でしたから、尻上がりというよりも、段階的に増えていく様子が、数字の上からも実感できます。数字は反響のバロメーターでしょうから、一度でも二度でも読んでくださった方には、ましてリピーターになってくださった方には、御礼を申し上げなければなりません。まさしく、お陰様、です。

もちろん、数字さえ多ければいいというものではない。一度数字が増えると、ついいつもそれを求めるような気持になったりする。こういうことを書くと数字が跳ね上がる、などといったことが読めるようになったりする。それは必ずしも悪いことばかりではないが、しかしそればかりを考えるようになったのでは、何のためにこのブログを始めたのかわからないことにもなる。数字にかかわりなく、書きたいこと、書かなければならないことも、当然、あるわけです。しかしいつとはなしに、少し型にはまってきたかな、という気もします。

「随談」というタイトルをつけたのは、随想とか随筆とかいうのをもう少し自在・自由に、という心からでしたが、「観劇偶談」とか「スポーツ随談」とか、サブタイトルをつけたのは、なるべく話題を多岐にわたらせたいという考えからです。去年から「時代劇映画50選」だの「昭和20年代列伝」だの「隋談随筆」だのと、新しいシリーズをぼつぼつと始めたのもその考えからですが、本当はまだまだいろいろアイデアというか、書きたいテーマはあるのです。しかしブログばかり書いているわけにもいきませんから、タイムリーなものと、時勢にかかわりないものと、適当にミックスさせながら、ということにならざるを得ません。

それにつけても、10月末に「新庄剛史小論」というのを書いて、忙しさにかまけて半月ばかりそのままにしておいた間に、アクセス数がそれまでの倍もの勢いで跳ね上がっていたのには、フームと唸りました。この辺が、ブログが生き物だというオモシロサであり、オソロシサなのでありましょう。

ともあれ、これが新年のご挨拶がわり、今年もよろしくご愛読ください。できたら、ご吹聴ください。