随談第205回 NNTドラマ・スタジオ試演会

NNTドラマ・スタジオとは一昨年2005年にスタートした新国立劇場演劇研修所のことである。その一期生による試演会が新国立劇場の稽古場であるというので見てきた。演目が久保田万太郎の「あぶらでり」と「かどで」だというのも、興味をそそられた一因である。今回が二回目で、見なかったが五月に行なわれた第一回試演会では『音楽劇 三文オペラ』だから、いろいろなものをやっていくのだろう。講師の連名を見ると、中村又蔵や中村京蔵などの名もあるから、かなり多彩というか、間口の広い教育をしているようだ。

久保田万太郎を試演会の演目に選ぶというのは、狙いはどこにあるのだろう。どの程度、どういう風にやるか、という興味とならんで、そこらのことも確かめてみたかった。考えられ理由は、ひとつは言葉であり、風俗のリアリティである。

最近の各種の舞台を見ていて、個々の成績はさておいて、一番気がかりなのは、演技のリアリティとは何か、ということである。実感とか臨場感とか存在感といった言葉が、批評の言葉としてよく使われる。他の言葉で言い換えようとしてもにわかに適切な表現が思いつかないという意味で、便利だから私も使うが、じつはこれほど、分かったようで分からない言葉もない。少なくとも、書き手と読み手の双方が、間違いなく伝え、理解した上で、これらの言葉が用語として使われているかどうか、じつはかなりあやしいような気がする。当然、同じことは演技をする側についても言えるはずだ。

もうひとつ心もとないのは、舞台俳優としての発声ということである。帝劇とか新橋演舞場とか明治座のようなところで見る、いろいろな演劇ジャンルからの俳優を集めてひと興行を行なうような芝居を見ていると、主演者たちの「声」がじつにまちまちなのがいつも気になる。地声で声を張り上げているような声を聞くこともしばしばだ。いわゆる新劇俳優とされている人たちにしても、それに変わりはない。

まるで新宿駅の構内を歩いているのと本質的に変わりのないアナーキーな今日の演劇状況を思えば、こんなことは当り前のことには違いない。なんらかの方針なり原則を立てようとすれば、議論百出になるのは見え切った話だ。が、それにしても・・・

新国立劇場が演劇研修所を作って研究生を募集して、俳優養成をする。とりも直さず、いま言ったような問題に、第一歩からぶつかるに違いない。どういう風にするのかな、というのが、私の興味の根幹にあった。演目が久保田万太郎と聞けば、なおさらだ。無手勝流は受つけない戯曲の世界がそこにある。演出は西川信廣、常識的に考えて、まず妥当だろう。おもしろいのは、『かどで』の印伝作りの所作指導は当然だが、『あぶらでり』の和裁にも指導がついていることだ。講師は本山可久子。妥当な人選だろうが、なるほど、ヒロインのおみつが裁縫をするのも、印伝の職人が仕事をするのも、現代の若い研修生にとっては、同じレベルのことなのだ。

といったところから地ならしを始めての今回の試演、ということを思えば、出演者たち、関係者の努力のほどは察するに余りある。ダメ出しみたいなことを言い出せばいろいろあるにせよ、『忠臣蔵』両国橋引揚げの場の服部逸郎ではないが、旭日いまだ地に落ち給わず、といってもあながち過言ではない。

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随談第204回 相撲偶談、とりわけNHKの相撲放送について

名古屋場所が終わった。朝青龍は琴光喜戦以後の5日間だけで場所を制したようなものだが、目覚めれば紛れもない獅子であったことを示したわけだ。白鵬は逆に琴光喜戦までがすべてだった。内面で糸が切れれば脆いことを見せてしまった。両横綱の対琴光喜戦二番が、内容としても白眉であり、今場所を決定したといえる。琴光喜の新大関は史上最高齢だそうだが、到底そうとは思われない身心両面の若さが、これまでは大成を阻む要因であったのが、今後は逆に、それだけ可能性を宿している表れともなり得るところがミソだ。

ところで今場所もまた、NHKの相撲放送には、かなりいらいらさせられた。相撲放送に限ったことではないが、事前に作った進行予定に乗っ取った、というより、必要以上に縛られた展開があまりにも多い。あれでは、実況放送ではなく、式次第の消化に近い。

終盤の数日は、ほとんど琴光喜のために放送をしているかのようだった。対横綱戦の日ならまだしも、連日、琴光喜の取組のはるか以前から、過去のデータやら、支度部屋の様子の報告やら、ほかの取組の間にやたらに流す。取組の間というが、土俵上では仕切りを重ねているのだ。そんな取組はどうでもいい、とでもいわぬばかりにすら見える。まして、花道を入ってくる、控えに入る、となると、土俵上のことは二の次にして琴光喜のアップを長々と映す、解説者やゲストに琴光喜についての話題を向ける。

今場所の琴光喜は注目の的には違いない。そこに焦点を当てることも、それ自体は間違いではない。だが相撲中継を見る者の中には、琴光喜以外の力士に注目し、その成績に一喜一憂している者も少なからずいるのだ。第一、当の土俵上の力士に失礼ではないか。

いらいらは、ゲストを呼んだ日には倍増する。中日のゲストは奥田瑛二で、なかなか見識もありよかったのだが、問題はアナウンサーの対応ぶりだ。ベテランのアナで一見なめらかなのだが、この場合、ベテランということはそれだけ、現状にどっぷり浸っていることを意味するから一層始末が悪い。事前に打ち合わせたメニューは全部こなさないといけないと思い込んでいるらしい。終盤戦の大詰めになってから、今度作る作品のことを話題に出したりする。予定調和を求めすぎるのだ。結果的に、誘導尋問めいた、期待する答えを引き出すことばかりが優先することになる。

勝ち力士へのインタビューもいらいらの的だ。最近のアナウンサーは、相手の応答に関係なく、予定した質問項目を消化することばかり考えているように見える。「おめでとうございます」「ええ、うれしいです」「どうですか。嬉しかったでしょう」といったやりとりが多すぎる。もう、答えはすんでるじゃないか!

千秋楽の三賞力士インタビュウ・ルームに、敢闘賞の豊響がいなかったのは何かの事情だったとしても、そのことを一言も言わないから、放送途中から見た私は、豊響の受賞を知らなかった。表彰式に向かう花道の奥に、琴光喜・安美錦と並んで豊響の顔も見えたのでハハンと気がついたが、アナは琴光喜のことばかり、それも同じことを繰り返し喋っていて、さっきインタビュウできなかったことに触れようともしない。琴光喜への十言の内、ひと言、豊響へ回すことも考えつかないのだろうか。

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随談第203回 観劇偶談(その95)今月の一押し・時蔵の織笛姫

再演の『NINAGAWA 十二夜』で見ものなのは、菊之助もさることながら、その他の役々を演じる多士済々の面々である。

左團次の洞院鐘道がいい。サー・トビイはもともと麻阿ことマライアと並ぶ儲け役だが、人生を達観して悪戯に韜晦している具合など、なにがなし左團次の役者人生を暗示しているようでもある。このところ脂ッ気が抜けて飄々滑脱の風格が好もしい左團次だが、鐘道のドタバタ調にもそれが生きている。左團次もいい役者になったものとつくづく思う。

亀治郎の麻阿は前回の大評判に引き続いての快調だが、丸尾坊太夫をからかう演出が前回に比べやや過剰に個人芸を突出させるので、亀治郎はその分水嶺の剣が峰を綱渡りする趣きともいえる。ここらが喜劇につきまとう難しいところだ。松緑に変わる翫雀の安藤英竹は自身の仁を考えた一種の頭脳プレイ。松緑のおかしさと質が違うのは仁の違いでやむを得ない。團蔵の比叡庵五郎は分を心得切った仕事ぶり。つまり大人の芸である。

主膳之助・琵琶姫兄妹に助力する段四郎の磯右衛門、権十郎の鳰兵衛、亀三郎、秀調などがいかにも程をわきまえた存在感を示すのも、特に苦労をするほどの役ではないにしても、歌舞伎俳優ならではのツボの押さえ方の故だろう。とくに権十郎が、シェイクスピア劇の人物らしい匂いを漂わせつつ翻案劇の人物になっているのが面白い。大篠左大臣の錦之助が一段と大人の役者に成長したことも合わせて、このあたりの役々の層の厚さが、この21世紀版翻案歌舞伎としての『十二夜』を支える土台として大いにものを言っている。つまり、チームプレイとして見ても、この芝居、なかなかの見ものなのである。

菊五郎の二役も、前回より輪郭が明確になっている。マルヴォーリオこと丸尾坊太夫は、菊五郎としてはお手の物だろう。前回は欝金色といいながら、むしろ淡い、上品な色合いだったのが気になったが、こんどは多少修正してあった。「欝金色」とは単なるyellowとイコールではない。よく書画骨董を包むのに使ったり、昔ならどこの家にも欝金色の風呂敷の一枚ぐらい必ずあったものだが、むしろ山吹色に近い濃い黄色である。

もうひと役の笛助は、FOOLという伝統のない歌舞伎の役柄の類型になぞらえるわけにいかないところが難役たる所以だが、阿呆な利口より利口な阿呆という阿呆の哲学がよく効いて、自由人の趣きが初演よりもくっきりと出たところに、菊五郎の腕がある。

しかしこれらを差し置いて、今月の一押しはというなら、時蔵の織笛姫を挙げよう。『十二夜』というシェイクスピア劇の世界を、時蔵の織笛姫が八重垣姫さながらの姿で赤姫の格を揺るぎなく示すことによって、歌舞伎という土壌に見事に移し植え、歌舞伎という器に盛ることを可能にしたのだと、私は見るからである。菊之助が主膳之助を勝頼さながらの姿で、獅子丸ときっちりと演じ分けた殊勲もそれと絡んで見逃せないが、おそらく今日の歌舞伎界で赤姫役者として最も純度の高い時蔵の存在がなければ、この「奇蹟」は菊之助の好演だけでは完結しなかったであろう。織笛姫としてどんなに突っ込んでシェイクスピアの世界を演じても、赤姫としての時蔵の示す歌舞伎の世界は揺らぐことがない。その虚実皮膜の間の振幅こそが、見もの中の見ものというべきである。

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随談第202回 観劇偶談(94)福助の切れ味

国立劇場の鑑賞教室『野崎村』の福助のお光がいい。久しぶりに、といえば語弊があるけれど、福助のこういう娘役を見るのがなんとなく久しぶりのような「錯覚」を起こした。つまりは、それだけ清新の気に溢れていた、ということである。

いまになって初役というのも不思議なようだが、かなり期するところあった、という感がある。『魁玉夜話』あたりを熟読した形跡もある。すくなくとも、現行のやり方をはじめから検討し直したに違いない。つまり、「誰それのおじさんから教わったとおりにやっています」ではなく、もちろん教わりもしたろうが、自分で組み立てなおした、そういうお光である。

それより何より、はじめ暖簾口から大根を入れた籠を抱えて出ただけで、ぱっと大きな、白芙蓉でも開いたようなはなやかさと、大きさがある。鑑賞教室の通念を、もうそれだけで破っている。

もっとも、大根をきざんだり鏡を見たり、懐紙を畳んで眉を隠して「オオ恥ずかし」と照れたりするところは、福助一流のサーヴィス精神がやや過剰に効きすぎて、可憐な田舎娘のお光よりも、中村福助が前面に出すぎると、役が老けてしまう。ここらが難しいところであり、こわいところでもある。

「四人の涙八つの袖」と、久松とお染が自害をしようとするところで、松江の久松が鴨居に掛けてあった鎌を取って自害をはかるというやり方をみせる。おととしだったか、登場する全員が人間国宝という大顔合わせの『野崎村』のとき、坂田藤十郎がやはり鎌で自害しようとするやり方を見せたが、福助はこのときに、久作と久松お染がやっさもっさする前面に回って、つまり客席に背中を見せて裏向きに坐って三人をとめるという「型」を見せる。ここらが『魁玉夜話』研究の収穫である。

だが何といっても福助ならではなのは、幕切れであって、今度は(何たることか!)両花道を使わないので、本花道を入る久松の駕籠を見送って、お光はかなり下手寄りに立っている。東蔵の久作はほぼ中央にいるから、ふたりの距離はかなり間隔があいている。ここは折衷式で、いつもの菊五郎式でやるのだが、こんなに距離があっても大丈夫なのかなと思うほどのところから「ととさん」とすがり寄る。別に相撲の立会いではあるまいし、そんなことはどうでもよいようなものだが、この一瞬の切れ味が福助ならではであって、見事に見る者の心を捉える。このインパクトはかなりのものであった。

両花道を使わないと、お常お染母子の乗った舟がいつまでも上手に入らず岸辺にもそもそしているのが気になって、幕切れまで急ピッチで盛り上げていく上にいささか言い分があるのだが、福助の一瞬の切れ味はその気分上の欠落を一気に埋め返す。かつて『忠臣蔵六段目』のお輕を演じて、「輕、待て」という勘平の一言に「アイ」と答えて菊五郎の腕の中に跳び込んでくる、その一瞬が、まるでスライディングさながら両足が空を跳ぶかのようであったのを思い出す。

時間切れ寸前に、思わぬ角度からシュートの決まったサッカーの試合でも見るような鮮やかさであった。

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随談第201回 観劇偶談(その93)菊之助という役者は・・・

『NINAGAWA十二夜』再演の初日を見た。部分の改変や手直しはあるものの、大略は変わらず、しかしすべてを洗いなおした感じで、良き意味での慣れはあってもイージーな慣れは感じられないのが、初演以上の成果となった最大の理由であろう。

なんといっても、菊之助の自信溢れる舞台ぶりが印象的である。琵琶姫と獅子丸の間をめまぐるしいまでに往復するのが、単なる仕分けでなく、琵琶姫の中から獅子丸が、獅子丸の中から琵琶姫が現れるかのように見えるのが面白くも素敵である。この面白さは初演にはなかった。

あのときは、じつに巧みに男になったり女になったりしみせる面白さがチャームだった。だが今度は、いまは獅子丸でありながらふと琵琶姫になってしまったり、これではならじとまた獅子丸になったりするのが、単に心の揺れの表出に留まらずに(菊之助自身の演技としてはそのつもりでしているのであったとしても)、そのこと自体が琵琶姫という、また琵琶姫がなりすましている獅子丸といういわば架空の人物の、人間としての愛らしさや善良さや、といったチャームとなって現われる。つまり、演じている菊之助自身の計算以上の人物として息づいている。そこがすばらしい。芝居を見ていて、面白い、と感じさせるのは、こういう瞬間なのだ。そうして、それはまた、菊之助という俳優が幾回りも大きく成長したことを、何よりも雄弁に物語る証しでもある。

海老蔵などに比べ、強烈な個性を発散させることの少ない菊之助は、一見すると無個性のようにも見える。少なくとも、端正で行儀のよい舞台ぶりから、彼が何を考えて演じているかを感じ取ったり、推測をしたりするのはかなり難しい。

ごく若いときから、私は菊之助に祖父梅幸の面影を見出していた。『新世紀の歌舞伎俳優たち』という、その時点での若手花形を論じた本を書いたのは2001年のことだから、もう六年にもなるが、その中で私は、菊之助のなかに見る梅幸の面影を手がかりに、当時の菊之助のことを考えようとしたのだった。基本的には、その考えはいまでも間違いではないと思っている。菊之助の名を襲名するときに演じた、その名もゆかりの弁天小僧菊之助の中に、私は、実際には見たことのない若き日の梅幸の姿を見出したのだった。そうして梅幸も、強烈に自己を発揮するという人ではなかったのである。

その後菊之助は、海老蔵がブレークした『源氏物語』の紫の上で、緋の袴をはいてどすどすと大股で歩いたり、外部出演してゴッホの若き日を演じたり、しばらく惑いの日々が続くかと見えたりした。(誰もが言う『グリークス』のことは敢えて言うまい。)女形を演じるのを嫌っているかとさえ見えた。だがその惑いの日は、いまから振り返れば、さほど長くはなかったようでもある。いや、長い短いよりも、その日々を抜け出してからの彼の歩みを見るとき、私は菊之助という人の、役者としての聡明さを思わずにはいられない。それは、わたしの予測や推測を大きく超えるものだったようである。どうして端倪滑らざる、なかなかの「サムライ」なのだということに、不明ながら私は、この頃になって気がついたのである。

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随談第200回 観劇偶談(その92)あくび指南

このところに見た「新劇」というと、新国立劇場のユージン・オニール『氷屋来たる』と、文学座創立70周年記念という「角書」のついた六月のアトリエの会で見た別役実の二作品『数字で書かれた物語』と『犬が西むきゃ尾は東』がおもしろかった。

この二作には、それぞれ『「死なう団」顛末記』『「にしむくさむらい」後日談』という、角書ならぬサブタイトルがついている。サブタイトルつきの題名ということからして、その思いっ切りの悪さがすでに別役調である。どちらも、上演時間がぴたり100分。かなり長い。長いというのは、この場合、内容とのバランスという意味である。本当にこれだけの時間が必要なのか、ということを、別役ワールドを愉しむ一方で、たえず頭の隅で考えている「私」がいた。もちろん、ある長さがあってこそ、退屈と背中合わせのような別役ワールドが成立しているのであることは承知した上の話である。別役と背中合わせのあくびかな、という一句(?)ができた。

『数字で書かれた物語』は、はじめが昭和11年、二・二六事件のしばらく後、という時点からはじまって、一度時間が逆戻りしたのち、「死なう団」壊滅まで、編年体で進行する。すでに定評のある佳作で、寓意もよくわかり面白いことは紛れもないのだが、さて、「時代設定」がそう明確にされると、「時代考証」みたいなことも、別役の世界は世界として、気になってくる。現に演出も、あの秀抜な食卓の場面で、「缶入りの味の素」を持ち出してくる。神は細部にありといわんばかりの各優の演技もそうだが、さてそうなってくると、その一方で、昭和11年に女性がズボンをはいていたっけ、などという疑問も湧いてくることになる。戦後昭和20年代、『山の彼方に』などといった東宝映画で、角梨枝子という角ばった顔の女優が、ズボンをはく女優というので評判だったりしたのを、その手のことにはませた小学生だった私は、ナマ体験として覚えている。ましてや、若い出演者たちの「声」や「身のこなし」がどうしたって「あの時代」でないのは如何にせむ?

それと、あの優柔不断の神々のような「死なう団」の人たちが、最後になると急に決断よく死んでしまうのも、芝居の「大詰」というものは仕方がないのだ、と思うより仕方がないのだろうか。でもそれなら、あの教祖めいたリーダーっぽい人物が「三段に乗って大見得」を切って幕にしたっていいことに、はいくら何でもならないにせよ、だ。

「大詰」といえば、『氷屋来たる』の大詰も、あれだけの力作の末だから仕方がないとはいえ、やっぱり「三段に乗って大見得」の口だろう。パンフレットに内野儀氏が、結末のつけ方に「女性嫌悪」という近代の家父長制を支えるメカニズムが働いているという指摘をしているが、作者としてはああでもしなければ幕が下ろせなかったのではないかしらん。

この芝居は、私の目には、一種の探偵推理劇のように見える。市村正親演じるヒッキーという人物の謎を、もって回って先へ先へと引っ張るだけ引っ張る具合が、妙なところで、別役作品と反りが合ってくるのに気がついた。問題を先延ばしする優柔不断に、人間存在の不条理を見ようというわけだ。でさて、15分の休憩をはさんでネット2時間半を超えるこの作、本当にこれだけの時間が必要なのだろうか。オニールと背中合わせのあくびかな、かな?

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