随談第157回 昭和20年代列伝(その9)ひばり三絶(3)

美空ひばり三絶の残る一曲は「お針娘(はりこ)ミミーの日曜日」である。『伊豆の踊子』と同じ昭和29年の野村芳太郎監督の松竹映画『青草に坐す』の主題歌、作詞木下忠司、作曲は黛敏郎、この時代の黛敏郎は才気とウィットに加え軽快で垢抜けた若々しさが抜群だった。映画音楽も数多く手掛け、松竹女優の桂木洋子と結婚したのもこの頃だったと記憶する。わけてもこの「お針娘ミミーの日曜日」のハイカラ感覚は水際立っている。バタ臭いことがこんなにも格好いいというのは、それだけでも稀有なことだ。

木下忠司の作詞がまたいい。1コーラス目の冒頭が「六日も空を見なかった、六日も土を踏まなんだ、だからミミーの日曜は、リュクサンブールに幕が開く」、2コーラス目は「お針娘ミミーはパリジェンヌ、ダニー・ロバンが大好きで、白い晴れ着がよく似合う」、3コーラス目が「モンマルトルのカフェーで、ちょっと真似してカルヴァドス、見たよな殿御と思ったは、ジェラール フイフイ フィリップ」という、いってみれば歯の浮くような「お巴里・お仏蘭西」ぶりなのだが、これが黛の曲に乗ると女の人生の一断面を卓抜に切り取ったかに聞こえるところが心憎い。(それにしてもダニー・ロバンだのジェラール・フィリップだのという名前がまさに1950年代である。)

そうして、ひばりがじつによく歌っている。同時期に「伊豆の踊子」とこの「お針娘ミミー」と、対照的でもあるふたつの傑作を放っているのは、すなわち、この1954年こそが彼女のもっとも輝かしい季節である証左なのだ。ひばりと二歳違いで当時高校生だった私の兄が、何を思ったかある日突然、音楽はバッハと美空ひばりに限ると言い出してラジオをかけまくっていたので、バッハと当時のひばりの歌はいやでも耳に入っている。これもある種の反面教師だろう。(ここでひとつ訂正。前回の「伊豆の踊子」の歌詞にもうワン・フレーズあったのを書き忘れてしまった。すなわち前回紹介した歌詞の後に「おらが親さま離れていても、今度逢うときゃ花も咲く」と続くのである。)

思うにひばりという才能の本質は、一言でいうなら「おしゃま」というところにある。

おしゃまとは要するに女の子の才気のコケットリイだから、当然、嫌味に通じる半面も持っている。売り出したころ、サトウハチローから小生意気な小娘と批判されたのも尤もともいえるのだ。それがこの昭和28、9年ごろ、ちょうど花の乙女の季節にさしかかって、早熟の天才少女から蝉脱していろいろな可能性を秘めていることを見せ始めた。様々な可能性を感じさせることそのものの哀切さ。後年のひばりがいかに国民的大歌手であろうと、所詮それは、このときの予感の中にあった可能性の中の一筋でしかない。そのことを知っている現在から振り返るとき、それは人生そのものの哀切さとなって感じられる。

ところでこのパリのお針子の青春の哀切を謳った主題歌を持つ『青草に坐す』という映画の物語は、別にパリとは関係がない。山の手のアッパーミドルの家庭に育った高校生のイニシエーション・ドラマなのだが、相手役の田浦正巳、先生役の大木実、姉の桂木洋子、さらには笠智衆その他の大船調映画の栄華の極みの空気を伝える俳優たちを駆使して、若き野村芳太郎が溢れる才智を傾けた佳編である。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第156回 昭和20年代列伝(その9)ひばり三絶(2)

美空ひばり三絶の(その2)は「伊豆の踊子」である。昭和29年、若き日の野村芳太郎監督の松竹映画主題歌、これも若き日の木下忠司の作詞作曲である。木下忠司は「喜びも悲しみも幾年月」だのなんだの木下恵介監督の映画音楽が有名だが、この「伊豆の踊子」の方が曲としてすぐれていると思う。いやこれは、日本人作曲家による近代日本の歌曲として有数の名曲ではあるまいか。

この五月、三百人劇場の野村芳太郎作品特集で久しぶりに対面し、映画そのものも、野村監督若き日の機知と瑞々しい情感のマッチした名画であることを再認識した。昨年暮、戦前の田中絹代版を見ての感想はその折のブログに書いたが、ひばり版の方がはるかに勝ること数等である。ひばりもいいが、石浜朗の一高生もこの人生涯のはまり役だし、何よりダメ兄貴役の片山明彦が傑作だ。由美あづさとか雪代敬子などの女優たちも、その後の世代の女優たちになくなってしまった、昭和の初期という時代を体現できる「日本の女」の匂いをもっている。

田中絹代版の主題歌「雨の日も風の日も」というのも、リアルタイムでは知らない私のような戦後育ちの人間でもいつとはなしに覚えてしまったほどの有名曲だが、それに比べひばり版の方は、もうひとつ知名度が高くないのは、名曲必ずしも大ヒットしないという、歌謡曲の人気というものの一種の宿命というほかないのだが、しかしもうひとつ突っ込んで考えれば、ひばりが国民歌手的な規模で人気と支持を獲得してゆく過程でぶつかった、いくつかの分岐点のひとつに、この曲があったのだという風に思えてならない。つまりひばりを支持する人気の質が、この曲にはある一定以上の支持を与えなかったのだ。

さりながら、昭和29年、十八歳のひばりの歌う「伊豆の踊子」はまぎれもない名曲である。次回に述べる「お針子ミミーの日曜日」などとともに、この頃のひばりは、高音に情感と抒情性があって、後年の「国民的大歌手」になってからのひばりしか知らない向きには信じがたいほどの清冽さがある。

曲は、ごく短いフレーズと同じ旋律の繰り返しで、単調なようでそれがかえって悠久につながるような、舟歌のように果てしなく繰り返されるような趣きが、興趣が尽きないという意味では曲想は違うがシューベルトみたいだ。「三宅出るとき誰が来て泣いた、石のよな手で婆さまが」「まめで暮らせとほろほろ泣いた、椿ほろほろ散っていた」「江島生島別れていても、こころ大島燃ゆる島」という、これで全曲である。言うまでもないが、「こころ大島」は「こころ逢う島」と掛詞になっている。

おそらく、心あるファンには忘れがたい思い出とともにいまも生きているのであろうが、それだけに留めておきたくない思いが私にはある。ズバリと言えば、ひばりヒット曲としてはやや高踏的に傾き、歌曲として評価されるには、どうせひばりの歌謡曲だとみなされて、識者にははじめからその存在すら知られていないのかも知れない。「川の流れのように」や「悲しい酒」ばかりほめていないで、ひばり歌謡にはこういう曲、これだけの達成もあるのだということを訴えたく、今回はやや肩に力が入ったブログになった。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第155回 今月の一押し(7)サプライジングな弁慶

歌舞伎座は『先代萩』特に仁左衛門の八汐、三津五郎の沖の井に菊五郎の政岡という「竹の間」(もうひとつ、団十郎の仁木も近来での仁木である)、新橋演舞場は『勧進帳』の海老蔵弁慶、どっちにしようか三秒迷った挙句、この欄はなるべくサプライズのあるものにしたいので、二ヵ月連続はちょいと気が差すが、その破天荒な目覚しさを買って海老蔵にしよう。国立劇場の坂田藤十郎の「伏見撞木町」の大石も、上方の型による真山青果劇みたいでサプライジングだが、これはちょっと冗談が過ぎる。

「竹の間」も、特に仁左衛門がねちねちと意地の悪い御殿女中ぶりを自ら乗って、楽しんでやっているのが面白い。こういうのを見ると、この人もやっぱり上方役者なのだと改めて思う。二代目鴈治郎に教わったというのもさこそと思わされるが、東京の役者ではこうはいかない。三津五郎にしても、いまとなっては菊五郎にしても、考えてみれば立役三人の女形役による「竹の間」というのも珍しい(つまりサプライズだ)が、この配役が成功している。団十郎の仁木も親叔父まさりの仁木だし、これだけ面白い『先代萩』はそうはない。歌舞伎座ならではの大人の芝居である。

しかし日本シリーズで、大人の落合監督率いる中日が、永遠の少年めいた新庄に名を成さしめたように、「不思議の国の王子」海老蔵の憑依のごとき弁慶の前には、この「大人たちの先代萩」も光を失ってしまう。これまで幾度見たか知れない『勧進帳』だが、こんな『勧進帳』、こんな弁慶は見たことがないという意味では、これまで見た数々の素晴らしい弁慶たちも色褪せて見えるかのような錯覚に陥ってしまいそうだ。新聞評に、弁慶の荒ぶる魂が海老蔵の身体を纏ったようと書いたが、一言で言うならそれに尽きる。

七年前の、海老蔵大ブレークの第一ページとなった弁慶も凄かったが、あの時は、まだあきらかに未熟な弁慶だった。むしろその未熟さそのものが魅力だった。下手なのは誰の目にもわかったが、そのことを問う声はなかった。そもそも、当時の海老蔵自身が、弁慶というには若すぎた。つまりはじめから、ヤング版弁慶だったのである。

だが今度のは違う。いかに若くとも、すでに海老蔵は一個の大丈夫である。男の匂いがぷんぷんしている。これこそが弁慶だろうと思わせる。これまで見てきた名優たちの弁慶は、壮年の、弁慶よりも年齢のいった弁慶役者たちのみごとな役者ぶりや風格を通して見る弁慶だった。いわば年齢不詳の弁慶である。もちろん、歌舞伎の座頭役というものはそういうものであり、それで100パーセントいいのである。だが今度の海老蔵を見ると、そういう暗黙の約束事を超越している。そこが凄い。一陣の竜巻を見るのに似ている。

もうひと役の『千本桜』の忠信も余人の企て及ばない忠信だが、変てこというなら弁慶以上に変てこである。とりわけ本物の忠信で出てきたところはまるで病人である。猿之助に、あそこの忠信は病み上がりだと教わったそうだが、それを颯爽たる忠信の付け味として見せるに留めるのが丸本時代物というものである。狐言葉は義太夫を踏まえたセリフの拙さが露骨に出る。ところが、狐になってからそれを物の見事にひっくり返してしまう。まさに異能の役者である。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第154回 スポーツ随談(その3)流出か交流か

シーズンオフになって松坂の大リーグ移籍をきっかけに、また流出問題が問題になっている。たしかにこれは、議論百出して当然であり、もっともっと議論すべき問題だ。

じつはこの問題についても、このブログを始めて間もない去年四月にも書いたことがある。その時は、黒船が来て開国してしまった以上、行きたいという者を止めるわけにはいかないだろうということを言ったのだった。いちばん偉いのは、最初に「海外渡航」を決行した野茂という、ジョン万次郎と吉田松陰を合わせたような選手であり、イチローだろうが松井だろうが新庄だろうが、みな野茂の爪の垢を煎じて飲むべきだとも書いた。まして、今ごろになって「洋行」をしようという連中などは・・・。

ロッテのバレンタイン監督が選手流出は日本野球の恥だと言ったそうである。FAを行使して行くのはともかくポスティング制度はやめるべきだという意見もある。どちらももっとも至極だが、そう言ったからといって、なるほど、ではやめますと言う選手はいないだろう。

松坂は10歳のときからの夢だったという。イチローでも松井でもたぶん同じだろう。誰かが、それなら何故高校を卒業した時点で行かなかったのだと言っていたが、これもその通りには違いない。その点でだれよりも天晴れなのは大家投手だろう。イチローも松井も松坂も、その意味では「いいとこ取り」だと言われても仕方がない。しかしこれも、それではやめますとは誰も言わないだろう。

要するに、アメリカこそが本場だという意識を、選手も関係者も一般ファンも、誰もが持っている限り、止むことはないのだ。日本のプロ野球は見ないがメジャーの中継は必ず見る、などと得意気に言う鹿鳴館のハイカラ紳士みたいな種族も発生してすでに久しい。「舶来崇拝」は日本有史以来の気質であって、それ自体が日本文化の一大特性みたいなものであって、日本人のDNAにすり込まれてしまっているのだ。

結局、考えるべきはふたつしかないだろう。

ひとつは、WBAやアジア選手権のような機会をもっと盛んにして、日本野球が本当にアメリカ・メジャーと対等なのだという実績をもっともっと作ることだ。そのためには、WBAで一回ぐらい優勝したからといって(韓国には負け越し、メキシコがアメリカに勝ってくれたお陰のたなぼた優勝だったことも忘れてはいけないよね)、この間のサッカーのワールドカップのときのような、かつての軍部の大本営発表みたいな野郎自大にならないだけの賢さを、国民的規模で養うようにしなければ駄目だろう。そうなった暁には、「流出」ではなく、「交流」が可能になるはずだ。

もうひとつは、企業としての日本の野球をもっとよくしなきゃ。Jリーグは、後発企業としての地の利を生かして、先発企業であるプロ野球の欠点をじつによく研究して出発したから、テレビの前でステテコ姿で缶ビールを片手にオダを上げている亭主や親父にうんざりしていた女性や若者を、一挙にさらっていったのだ。いまのところ、その意味で見るべき有効打は、日ハムの札幌移転ぐらいなものだろう。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket