わが時代劇映画50選(その5) 『笛吹童子』東映・1954、萩原遼監督

もう一回だけ錦之助、ということになれば、どうしたって『笛吹童子』を選ばないわけにはいかない。これこそ映画俳優中村錦之助の原点であり、時代劇映画の幾流かの重要な水脈に立つ、その意味からも原点の再確認ともいうべき作品である。

普通、時代劇映画の論者たちは、この種の映画を無視する。論ずるに足りないジャリ向き映画、というつもりだろう。だがそういうマッチョ趣味が、時代劇映画論を画一的にしてはいまいか、というのが、私のひそやかな異議申し立てである。

もちろん、ジャリ向け映画には違いない。当時六社あった映画製作会社が毎週二本づつ新作を封切りしていた戦後興隆期に、90分前後のA版プログラム・ピクチュアの添え物として、60分前後のB版をもっぱら子供向けシリーズ物として作るというのが、松竹など老舗に追いつき追い越すために新興の東映が考えた戦略である。シリーズにすれば、こどもは毎週見に来る。『笛吹童子』は三部作だった。これが大当たりして『里見八犬伝』『紅孔雀』は五部作で作られる。他社も追随する。そのための新スターが次々と開発される。中村錦之助は、東千代之介とともにその路線を切り開いた尖兵である。

しかしかつての林長二郎の映画処女作が『稚児の剣法』であったように、前髪をつけた美少年を主人公とする甘美なロマン性を生命とする作品は、時代劇映画のごくごく発祥の時期からあって、常にひとつの水脈を成していた。それを演じる二枚目スターの多くが歌舞伎界の出身者であるのは、歌舞伎の中にこれも古くからある若衆方という役柄から尾を引くジャンルだからというのが、私の考えである。女にもみまほしい美男、という常套句があったように、おそらくこの芸脈は、若衆歌舞伎に水源があるにちがいない。どこかに性の越境の匂いを秘めている。単に美男というだけではつとまらない。時代劇映画と歌舞伎の関係を考える上でも、童子物というのは、重要な鍵である。

そうした考証は措くとしても、この映画での錦之助の水もしたたる美しさと気品は格別だ。映画処女作の『ひよどり草紙』も同系の役だが、秘めた可能性を示すに過ぎない。『笛吹童子』で錦之助は映画俳優として開花したのだと私は考える。

『笛吹童子』と次の『紅孔雀』とはNHKのラジオドラマ「新諸国物語」シリーズの映画化である。作者の北村寿夫は、円地文子とともに小山内薫が晩年に発掘した新人のひとりで、早くからのラジオ作家だった。作としての格は、ラジオドラマ『笛吹童子』の方が実は高い。正義の白鳥党と悪のされこうべ党の時代をこえた永遠の闘争が、「新諸国物語」全体を貫くテーマである。ナイーヴな若者がされこうべ党の血筋であったりする。

戦国の世、丹波の領主丹羽修理亮の子の菊丸は、父を討たれ城を奪われながら、戦乱に明け暮れる世に疑問を感じ、笛を吹き、面作りとして生きようとする。そこに作者のモダニストとしての作意があるのだが、映画は必ずしもそれを充分には汲み取っていない。しかし錦之助の気韻がそれを補って余りある。また菊丸の兄の、東千代之介演じる萩丸が牢獄で被せられた髑髏の面が肉付きになったり、大友柳太朗の幻術師霧の小次郎の憂愁など、以後の時代劇から失われてゆくロマンの風趣が捨てがたい。

随談第134回 昭和20年代列伝(その5)

前回の話の続きである。

さてやがて、その三木鮎郎氏が到着し、乗っていた自動車が心棒を折るという事故を起こしちゃって、と弁明をし、息をととのえますから十数えるあいだ待ってくださいと断ってから、さあ始めましょうといって、公開録音を開始した。子供ごころにも、なかなかスマートなものだと思った。

このおしゃれクイズというのが、どういう形式のクイズだったか思い出せないのだが、題名から想像できるように若い女性の出場者が多かった。民放が始まってから、それまでの、「二十の扉」とか「話の泉」とか「とんち教室」とかいったNHKのクイズとはひと味違う、新しいタイプのクイズがにわかに増えたような記憶がある。NHKでも、「三つの歌」のような比較的民放に近い感覚のクイズ番組がしばらく前から評判になりはじめていた。

いまの言葉でいう時間が押しているので、わずかな準備時間で、つぎの番組の公開録音がやや慌しくはじまった。同じクイズ番組でも歌謡曲がテーマのせいか、司会者も出演者も、入れ替わりのあった聴衆も、ぐっと一般的になった気がした。これもクイズの形式が正確には思いだせないが、民放版「三つの歌」という感じだったのは辛うじて覚えている。

さてこの番組に、たしか歌唱指導のような役回りで登場したのが、松平晃だった。司会者がその名を紹介すると、隣にいた母が、あー、マツダイラ・アキラ、と感に堪えたような声を上げたのを、はっきり覚えている。元気でいたのね、とは言わないが、そういった雰囲気であったことは小学生の私にも察しられた。ちなみに母は明治42年生まれの酉年、十七代目中村勘三郎と同年である。

それまでも、NHKでも歌謡曲の番組はたくさんあった(ような気がする)から、藤山一朗とか霧島昇とかディック・ミネといった、盛んに活躍している戦前以来のベテラン歌手の名前は、私もかなり知っていた。しかしマツダイラ・アキラという名は、この時はじめて聞く名前だった。母が、なつかしさ半分おどろき半分のような嘆声をあげたのも、当時でもあまり聞くことのない名前になっていたからだろう。

小沢氏の本によると、松平は藤山一郎と同年の明治44年生まれ、昭和36年に五十歳で晩年は不遇のうちに死んだとあるから、このときはまだ四十二歳だったことになる。しかし、子供の目で見た印象ということを差し引いても、もっと老けて見えた。「走れ幌馬車」という往年のヒット曲を歌って見せたが、元気なおじいさんという感じで、藤山一郎やディック・ミネの颯爽さやダンディぶりとは違う。残酷なはなしだが、過去の人という感じが子供ごころにもした。

中村錦之助と東千代之介が大ブレイクした『笛吹童子』を見たのはこの翌年だが、その冒頭、野武士の首領、月形龍之介扮する赤垣玄蕃に攻め滅ぼされる丹波の満月城城主丹羽修理亮がほんの一シーン出てくる。あゝ、河部五郎だわ、と母がつぶやいた。昭和ひと桁時代、母の娘時代のスターである。こうした例に、この当時しばしば出会ったものだ。流行歌手、映画スター、昭和二十年代とは、戦前と前後がまさに同居している時代だった。

随談第133回 昭和20年代列伝(その4)

近頃の愛聴版として、『小沢昭一ごきげん“心の青空”』というCDをよく聞く。「心の青空」をはじめとして、小沢さんがしんそこ“いい”と思うなつかしい歌を、トークをまじえながら自ら歌う、というものである。ここでは“いい”というのは“なつかしい”というのと同義であって、結局のところ、人の心の根底を養っているのは“なつかしい”という言葉に集約される心の働きなのだと、このCDを聴いているとつくづくわかる。

なにより愉快なのは、小沢さんが自分の耳と心に残るかつての歌い手の歌いぶりを、まごころ籠めて再現してくれていることである。声帯模写的再現ではない。といって、自分流に歌い崩すのでもない。「丘を越えて」だったら、真澄の空は朗らかに晴れて、というところを、まーすーみーのそおらはほんがらかにはーれーて、と心を弾ませて歌う。

そう、われわれの耳にもここはそういう風に聞こえていたのだった。そうして、ここはこういう風に歌わなければ駄目なのだ。例の並木路子の「りんごの歌」はここには入っていないが、あれも、リンゴの気持はよくわかる、というところを、りんごーのっきもちいはー、と歌わなければちっともなつかしくない。「ほんがらか」であり「のっきもち」なのだ。

このところ、小沢昭一『流行歌・昭和の心』、立川談志『昭和の歌謡曲』といった本を立て続けに読んだ。ふたりとも、ひとまわり、半廻り上の年代だが、知識の基盤は私もほぼ共通している。しかしその話に入る前に、お二人の本いずれにも出てくる松平晃という戦前派の歌手の名前を見て、あざやかにひとつの記憶が浮かび上がった。

昭和28年の正月といえば、いまのTBSがラジオ東京といって民間放送第一号として放送を始めて二回目の正月ということになる。どういういきさつだったか忘れたが、おしゃれクイズというのと、もうひとつ、題名はいま思い出せないが流行歌をネタにした半分クイズで半分のど自慢みたいな番組と、ふたつの公開放送をいっぺんに見られるという切符が手に入って、母はそういうのが好きだったから、小学生だった私は連れられて見に行ったのだった。放送局といっても、当時のラジオ東京は有楽町にあった毎日新聞社のビルの上の方のフロアに間借りしていて、録音会場もそこにあった。

放送は夕方からだったが、数寄屋橋のあたりへ来ると大変な人だかりがしている。箱根駅伝のアンカーがちょうどやってくるところだった。第一位で来たのは早稲田で、昼田選手というちっとは知られた選手だったが、朦朧として今にも倒れてしまいそうである。カンロクねえなあ、という声が聞こえた。あとで知ったことだが、この昼田選手は意識がなくなったまま何とか首位をキープしてゴールインしたのだが、監督が自分もいっしょに走りながらメガホンで耳元に激励を送ったという、これは箱根駅伝史上いまも語り草になっている椿事であったらしい。つまり、そういう歴史的事件をナマで目撃したわけだ。

さて放送局に着いたが、おしゃれクイズの司会者の三木鮎郎(という人がいましたね。民放がはじまって、こういう放送文化人みたいな人がつぎつぎに登場してくることになる)がなかなかやってこないので、なかなか始まらない。(つづく)

随談第132回 観劇偶談(その64) 今月の一押し(その3)

ヒデだのジダンだのにかまけて「今月の一押し」を書くのがつい後回しになった。

さて今月は、歌舞伎座の鏡花シリーズで段治郎、春猿、笑三郎、猿弥、右近といった猿之助チルドレンの面々がそれぞれに持てる力を発揮、というより潜在力を開発してみせた。かれらの健闘はおおいに讃えられて然るべきである。

この中では、『山吹』の心揺れながら、いや、仕事があると自分に言い聞かせて傍観者としてふみとどまる画家島津正を、てらいなく、ある説得力をもって演じ、『夜叉ケ池』の萩原晃でも、これもてらいのない演じ方で、ふたつの世界を往来する男を実感させた段治郎と、『夜叉ケ池』の百合で、鏡花のセリフをかなりの巧みさで言ってのけた春猿とが一頭地を抜いている。遠目で見ると玉三郎かと間違いそうだった。

笑三郎の『山吹』の縫子も悪くないが、どこにもすべて均等に力をこめて熱演したために、やや単調に陥りメリハリがなくなったのが惜しい。藤次に心を向けていくところを、もっと印象づけるべきだった。猿弥の『天守物語』の桃六は、無難という以上にやったのは確かだが、一押しというにはもうひと息。右近は『夜叉ケ池』の文学士山沢学円の方がよかった。『天守物語』の朱の盤坊は魔界の人間にしては健康的過ぎる。

と、いうわけで、春猿か段治郎かというところか。相討ちというのもかわいそうだから、今月は二人いっしょに殊勲・敢闘両賞ということにしよう。

歌六が、『山吹』で人形使い辺栗藤次という難役をやってのけて「性格俳優」ぶりを見せる。が、これは別格。それにしても、こういう芝居をすると、中村嘉嵂雄にじつによく似ている。

水際立った演技ということなら、『天守物語』の老女操で、天守の下で人間どもが右往左往するさまを「鏡花語」で鮮やかに実況中継してのけた上村吉弥だろう。吉之丞と間違った人さえいる。吉之丞と間違えられだけでも名誉だが、しかし吉弥はじつはこの役、再演であることも承知の上で、これを今月の一押しとする。

もうひとつ、国立劇場の『毛谷村』を初日間もなくと中日過ぎてからと二度見る機会があったが、近年七月鑑賞教室の後半は学校関係より家族連れを対象にしている。再見した日も、親に連れられた小学生が大勢来ていたが、かれらの観劇態度のすばらしいこと。単にお行儀よく見ていた、いい子いい子、というのではない。興味津々、身を乗り出して舞台を見つめているのだ。なまじ高校生・大学生になって知恵=邪念がつくと素直に見られなくなる。この小学生たちも数年後にはどうなるか知れないが、彼らを一押し番外編としよう。

随談第131回 「自分探し」再論

サッカーの中田の引退の弁にあった「自分探し」という表現が、方々で話題の種になっているらしい。私も前々回の「随談」でそのことを書いた。

まさかこのブログが目に入ったとも思えないから、直接の対象にされたわけではないが、ある新聞のコラムに、ヒデ問題をめぐる諸家の意見で気になったことひとつ、という文章が載っていた。「自分探し」という言い方を青臭いと極めつける意見に首をかしげる。中田君はまだ二十代、青春真っ只中、ふつうの社会人として生き方を探す旅、大いに結構ではないか、という趣旨だった。つづけて、この行方定めず揺れ動くこの現代、自分の生き方に迷わぬ人間など信用できるか、と結んでいる。

もう、中田個人のことは離れよう。また、このコラムの筆者に難癖をつける気もない。ただ、近頃はやるこの「自分探し」という言葉に、あるいはこの言葉を流行させる風潮に、私は胡散臭いものを感じてしようがないのだ。

この前も書いたように、この言葉、教育の現場、方々の学校の案内書のたぐいにやたらに見かけるトレンディの用語なのである。高校の3年間、短大大学の2年間4年間に、適当な進路を見つけさせる、その進路指導に、この「自分探し」なる口当たりのいい言葉が定番として登場するのだ。(私もついこないだまで、そうした近辺に関係していたから、まんざら知らないではない。それで、つい、反吐が出るのかもしれない。)

コラム氏の言うように、自分の生き方に迷わない人間など、もちろん願い下げだ。人間、誰だって「自分」とは何者かわからぬまま、生きていく。いうなら、生涯「自分探し」の「旅」をする旅人だと言ったっていい。つまり「自分探し」とは、自分とは何かという、一生かかったってわからない命題なのであって、受験指導や就職指導で片付くような問題ではない筈なのだ。

人には添ってみよ、馬には乗ってみよ、という立派な進路指導の言葉が日本にはむかしからある。受験や就職に迷っている生徒や学生に、これ以上の言葉があろうとも思えない。そこへ「自分探し」などという、ムード本位の言葉ばかり美しいことを言うから、ますます迷いの道へ追いやることになる。自分が何をしたいのかわからないことに罪悪感を抱いて、フリーターがふえるのも当然ではないか。おじいちゃんの老眼鏡ではあるまいし、探したからといって、ハイ、ここにありました、というわけにはいかないのが、自分であり、人生というものではないのか。

別に教育問題の話をするつもりはない。つまり「自分探し」なる当世トレンディの言葉の実体は、こんな胡散臭いものでしかないのだ。もう一回だけ名前を出すが、わが中田選手が人生の一大事の決断をするのに、そんな、やすっぽい流行語を使ってもらいたくなかった、というの「ヒデ問題」についての私の意見である。

だって、あまりにも惜しいではないか。

随談随筆(その2) ジダンの頭突き

サッカーのワールドカップの決勝戦の大詰めで、フランスのジダン選手が、相手方のイタリアの選手に頭突きを喰らわせた椿事が、たちまち世界中を駆け巡る話題となった。テレビ中継のさなかに起こった事件でなければ、あれほどの話題にはならなかったに違いない。これほど大勢の目撃者のいた事件というのもめずらしい。大事件に立ち会ったというだけで、つい誇らしい気分になる。それでまた、ジダン事件評論家が世界各地に誕生する。

と思ったら、こんどは大相撲で、ロシア出身の露鵬が大関の千代大海と勝負がついた後の土俵下で口論となり、取材にきた新聞社のカメラマンに怒りが収まらぬまま暴行をふるうという椿事が起こった。

ふたつの事件に共通するのは、口論から事がはじまったという点である。満場注視の中で起こったとはいえ、よほど傍にいた人でないかぎり、何を言ったのかはわからない。とにかく、耐え難い侮辱を受けたと感じたればこそ、事件は起こったのだ。

ジダンの事件からすぐに連想したのは、忠臣蔵の松の廊下の一件である。通説では、浅野内匠頭が吉良上野介の侮辱に耐えかねて、ご法度である殿中で刃傷に及んだということになっているが、ではそれがどんな侮辱だったかといえば、じつはだれも知らない。むかしから講談俗説から小説、映画テレビの脚本まで、なぜ浅野が刃傷に及んだのか、いろいろな原因を考え出したが、すべては想像にすぎない。

松の廊下の場合は、たまたま傍に居合わせて内匠頭を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛という人物が証言を残しているが、このあいだの遺恨覚えたか、と言いざま突如浅野が刃傷に及んだというだけで、遺恨の内容までは知らなかったらしい。

歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』では、吉良上野介に擬した高師直が、浅野内匠頭に擬した塩冶判官をいびる場面が克明に描かれ、誰が見てもあれでは刃傷(頭突き?)に及んだのももっともだ、と思わせるようになっている。大名たるものを、鮒だ鮒だ、鮒侍だと嘲弄するのが「耐えがたい侮辱」のクライマックスである。

ジダンの場合も、いろいろな推測がされていて、おおよその想像はつくが、口論の相手のイタリア選手が口を閉ざしている限り真相はわからない。決勝のこれから延長戦だという大事を前に軽率だったという批判があるところも、『仮名手本』の作者が「浅きたくみの塩冶どの」と作中人物の口を通して批評させているのと共通する。

それはそうなのだが、大方の同情がジダンに集まっているのは、職場や仕事上のことから、電車の乗り降りの無作法から、さらには家庭内においてすら(!)、お互いさま、みんなくち惜しい思いに耐えながら生きているのだという共感が、だれの胸の底にもあるからだろう。法を侵した浅野も悪いが、そう仕向けた吉良だって同罪ではないか、というシンパシイが忠臣蔵を四百年間、支えてきたとすれば、ジダンにとってのW杯のピッチはまさに松の廊下だったことになる。

忠臣蔵は人間のするあらゆることが載っているカタログだ、とは鶴見俊輔さんの名言だが、ジダンの事件はそれをあらたに証明したかのようだ。

随談第130回 観劇偶談(その63)

俳優座劇場でマキノノゾミ作『東京原子核クラブ』を見た。つい前の週には新国立劇場で井上ひさし作『夢の痂』を見たばかりである。どちらも敗戦を軸にした芝居である。対外強硬論を得意気に唱える種族が俄かに繁殖したり、サッカーでは大本営発表みたいな勝ち戦予報を繰り返す内に負けてしまったり(ブラジル戦を前に、こうすれば勝てるなどと、本土決戦を前に竹槍戦術を唱えるような解説者もいたっけ)、応援しない奴は非国民だなどとマジで言う人種が出現したり、アヤウイカナと思いたくなる時勢の、これも反作用的反映かもしれない。

そういう時勢の中で、どれだけ平静を保てるか。頭を冷やし、面を洗って来いと、静かな声で言うことができるか。いつの間にか、自身が声高になったり、肩を怒らせて紋切り型を繰り返す、当の相手と相似形になってしまわずに、言うべきことを伝えるスベを身に添わせていられるか。

そういう観点からいうなら、芝居としては『原子核クラブ』の方が安心して見ていられる。安心して、というのはこっちの方が芝居になっている、という意味である。どうも井上さんの東京裁判劇は、テーマがテーマだから無理もないとはいえ、つとめて肩の力が抜けている風を装いながら、実は肩に力が入って力みかえっているので、見ていてはらはらしてしまい、ひどくくたびれる。横綱を目前にした先場所の栃東が、気にしていませんよと言いながら実はガチガチになって、ろくろく相撲が取れなかったのと似ている。

むかし照国という博多人形みたいに美しい横綱がいて、叩かれても引かれても決して前に落ちない安定度抜群の相撲を取った。この人がユルフンという評判を立てられたことがある。ユルフン、つまり褌がゆる過ぎるというのである。しかし実際は、この人のつきたてのお餅みたいに柔らかな身体には、締込さえもきつく締められなかったのだ。

マキノノゾミさんは、ユルフンで相撲を取るのがうまい人とお見受けする。少なくとも、『東京原子核クラブ』のユルフンぶりはなかなかのものだ。昭和七年ごろから敗戦後の昭和23年ごろまでの、舞台は一貫して本郷あたりの下宿宿でのデキゴトをスケッチを連ねるかのように重ねてゆく。ちょっとあざと過ぎて、この種の芝居では一番大切な糞リアリズムには陥らない写実が、若干ゆがむ部分もあるが(たとえば箕面富佐子という女の扱い方のような。あれは、よくない意味でのコンニチ風の漫画の影響だと思う)、しかし若き日の朝永振一郎を思わせる友田晋一郎役の田中壮太郎や、仁科芳雄を思わせる西田義雄役の山本龍二など、いかにもその時代の匂いを漂わせた人物になっていて感心する。幕間までは、見ていて楽しいけれどもこの芝居何を言いたいのかと思わせておきながら、時代が昭和十五,六年ごろに進むあたりから、にわかに焦点がフォーカスされてくる。そのあたりの計算が、さりげないが、かなりうまくされている。

井上さんの主張するところは、じつによくわかるし、その意見・見解にもかなりの部分、共感する。しかしなんだか、作者のコケノイチネンを鑑賞させられるような気分になってくるのは避けられない。

随談第129回 サッカー余談

もうサッカーの話はおしまいのつもりだったが、中田の引退という「事件」を見ていたら、もう一回書く気になった。

そもそもいまのサッカー選手で、私がはっきりその存在が認識できるのは、つまり、街角ですれちがってもわかるのは、中田と、キーパーの川口ぐらいのものだ。人物として興味を抱かせるとなると中田しかいない。(川口も、ちょっと他のサッカー選手と違う雰囲気を感じさせて好感がもてるが、人物として論じて見たいとまでは思わない。)

こんどのワールドカップで日本が戦った三度の試合の後、インタビューに答える中田の言うことを聞いていると、自身とチームの実体を冷徹に見切っていることがよくわかる。まずそのことに、興味をもった。

最終のブラジル戦のあと、七分間だかひっくり返っていた姿は、ふつうならみっともないというところだが、しかしそういう常識論を超えるものを感じさせたのは確かだ。あの七分間に、よくも悪くも中田という人物のすべてがあるともいえる。つまり彼はエイリアンなのである。マスコミ流の穏当な言い方をすれば孤高の人ということになるが、少なくとも現状のサッカー界ではエイリアンと言った方がふさわしい。

サッカー界のエイリアンが、ホームページで長文の引退の弁を発表して、サッカー界から「自分探し」の旅に出ると言った。あの引退の弁はなかなかよく自他の結界を見極めながら書いていると思うが、ただひとつ、「自分探し」などという当世流の言葉で己れを語ろうとした点だけはいただけない。自分探しなどというのは、二流の心理学者かなにかが言い出して、そこらの学校の入学案内などに必ずでてくる、いまどき流トレンディの安っぽい用語なのに。そんな言葉で人生の決断を語ったのは、ちょっと失望した。そもそも、自分なんてものは、探して見つかるものなのだろうか? (ついでだが、こんな言葉で受験生や生徒を惑わせるのは、ずいぶん罪作りではないだろうか?)

しかしまあ、いまはよしとしよう。過去何年間かの過酷な環境を生き抜いてきた体験は、そんな無内容な出来合いの用語を使うまでもなく、もっと確かな生きるためのコアを確信させている筈だ。大学に入るという噂も聞いたが、それもいいし、そうでなくともよい。大学に入るなら、自分探しなどというそこらのギャルみたいなレベルでなく、己れの思うところを実現させるための高度な術(すべ)を獲得するためであってほしい。そうでなければ、あのひっくりかえって涙を呑んでいた七分間は何だったのだということになる。

たとえば医師になる、法律家になる、まあなんでもいいが、とにかく、日本サッカー協会などというところとは無縁な地点に自分の立つ場所をつくる。その上で、自分の思う形と方法でサッカーと関わる仕事を開拓する。そういう姿として、しばらく世間から忘れられた何年間かののちに、再び、もっと静かな形でニュースになる。そういう時がくれば、たぶんそれが一番いいだろう。少なくとも、エイリアンに似つかわしい。

それにしても、最後の試合の相手がブラジルだったのは、中田のために幸せだった。予選でブラジルと日本を同じ組に入れてくれた神の配剤に、中田は感謝すべきである。

「随談随筆」予告とその第一回

こういうタイトルのシリーズを始めることにします。

人もすなる随筆というものをわれもしてみむ、という思いがあります。

エッセイ、というのは、本来、知の試みという意味だそうで、だから、ふつう論文とか試論とかいっているものも、外国語に訳せばESSAYになるのだと聞きました。モンテーニュの随想録、エッセイというのはつまるところあれなのだ・・・ 

これまで続けてきた「随談」が、まあエッセイのたぐいとして、こころにうつりゆくよしなしごと、をそこはかとなく書きつけるような、日本在来種みたいな「ずいひつ」も書いてみたい。タイトルを新たにする所以です。
 

随談随筆(その1)ソリティア

二年前にパソコンをいじるようになってから、悪習がひとつできてしまった。ソリティアというパソコンに入っているトランプゲームである。ご存知の人も多いと思うが、黒札と赤札を交互に組み合わせて、キングから順に数の小さい札へと揃えてゆき、全部の札が開けば勝ち、開かない札が沢山残るほど駄目という、ルールはごく簡単なひとりゲームだ。

パソコンを買った当初、大概の人がそうだと思うが、教則本みたいなものに従って、クリックとはどうの、ドラッグとはこうのと、マウスなる器具のあやつり方を練習するうち、なんとこのソリティアが練習の中に入っていたのだ。それを見た途端、たちまち、ある種の郷愁とともに、何十年かむかしの記憶がよみがえった。

このゲーム、私は小学校入学の前から覚えて知っていたのである。親戚の叔父から、姉と兄を経由して習い覚えたのだった。最初に一定の方式に札を並べた「場」の良し悪しと、そのあと手札を開けていくなかで展開する「運」の良し悪しとの絡み合いで、簡単に全部の札が開くこともあれば、神様にいじわるをされているとしか思えないほど、札がぜんぜん開かないこともある。よければよいで、悪ければ悪いで、後を引く。ギャンブル性が強いのだ。ただし、このゲームの名がソリティアということは知らなかった。

しかしそのときは、なんといってもまだ小学校にも入らない子供だったから、ギャンブルの虜にはならず、しばらく忘れていた。再燃したのは、受験浪人のときだったか大学に入ってからだったか。たまたま見た雑誌のグラビアに、有名な映画監督の山本嘉次郎がこのソリティアをやっているのを、うしろから老妻が見守っているという、老夫婦のなかなかほほえましい写真があった。ほお、となつかしさがこみあげてきた。

それからしばらく病みつきになったのを第二次とすれば、パソコンでの再開以降は第三次ということになる。私は勝負事もギャンブルもやらない。麻雀はソリティアといっしょに叔父が教えてくれたが、その後やらないから忘れてしまった。碁は、去年死んだ従兄弟の上村邦夫は本職の九段にまでなったが、碁将棋については、棋士たちの風格や行状の方にはかなり興味があるが、自分でやろうとは思わない。ソリティアは、ゲームといえばゲームだが、占いともいえる。運まかせ神様任せなところが、私の性に合っているのだろう。