随談第128回 観劇偶談(その61)たけのこ会

第4回たけのこ会を見た。三津五郎の一門の生きのいいところが歌舞伎舞踊のちょいといいところに取り組む。いうなら舞踊会には違いないが、あくまでも役者としての修行の道筋というスタンスをしっかり踏まえている。そこが、見ていて頼もしくも清々しい。賛助出演も仰いでいるが、その顔ぶれにも配慮が感じられ、またその連中も助っ人気分ではなく、声を掛けられたことを喜びとしての出演であることが、舞台を見ていてもよくわかる。

演目も平凡ではない。『鬼次拍子舞』というのはあの七代目三津五郎が復活した天明期の古い曲だが、昭和40年ごろ、八代目三津五郎といま雀右衛門で歌舞伎座の正月興行に出したのを見た記憶がある。三津右衛門に、中村京蔵が呼ばれたのはおそらくそうした縁もあるのだろう。しかしそうしたことは抜きにしても、見ごたえのあるものだった。

三津右衛門の役が山樵実は長田太郎という、『関の扉』の関兵衛などと同工の役柄、京蔵の役名が白拍子松の前じつは岡部六弥太妹呉竹という、つまり白拍子姿か赤姫風のすがたに変って正体を顕わすという役柄だ。三津右衛門が単にがかいがあるというにとどまらない、立派な役者ぶりを見せて、なかなか大きい。老けの感じと、古怪さがしっかり身に付いていて、浮わつかないのはたいしたものだ。京蔵もこの一座にまじると、持ち前の濃厚な感覚が存分に生きる。かなり期するところある舞台と見た。古色といってよい感触が身についているには三津右衛門の場合と同じである。

もうひとつの眼目は玉雪の与四郎に三津之助の次郎作、八大の禿という配役の『戻駕』だ。なじみの曲とはいえ、これも天明舞踊だ。それだけに『鬼次拍子舞』とつくところもあるが、こうした踊りをしっかりと身につけさせようという三津五郎の配慮でもあるに違いない。事実、三津之助、三津右衛門、八大、また『三人形』で丹前奴の足拍子をあざやかに踊ってのけた大和にしても、みな共通した味を持っている。

つまりそれこそが「大和屋」の風である。かれらの踊りを見ていると、八代目や九代目の三津五郎の面影が随所に感じられる。おそらくかれらは、意図して真似ているのでもなければ、九代目はともかく八代目を見知っている筈もない。それにもかかわらずそれを身に付けているというのは、当代の三津五郎を通じて学んだものであるのに相違ない。そこが、何とも興味深い。

『三人形』は大和の奴のほか、坂東功一の若衆に中村福若の傾城、最後に総出演で『笑門俄七福』という(はじめて見た)めずらしい常磐津舞踊。中で『乗合船』の万歳と才蔵の柱立ての件をそっくりやるが、これもいかにも坂東流のムードである。

三津五郎も一曲踊る。『三ツ面子守』。あざやかにして、しかも端正に崩れないところが、まさに代々の三津五郎に一貫して流れていた、大和屋ならではの芸の風格というものである。

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随談第127回 サッカー偏痴気論(つづき)

蹴鞠錦(けまりにしき)は前頭5枚目の平幕力士である。前頭5枚目というのは、本場所で上位陣と対戦できる位置である。つまり、プロ入り13年で、三場所つづけて上位力士として本場所に出場できる位置を確保できたのである。(横綱と対戦できる地位にまで出世できただけだって大変なものなのだ。)

もっとも三場所続けてといっても、はじめての本場所出場だった仏蘭西場所では、なにがなんだかわからないうちに負けてしまった。その前のときは道破場所という地方場所で、大事な一番で土俵際でうっちゃられて負けてしまい本場所に出られなかった。マスコミは「道破の悲劇」などといっていっしょに涙まで流してくれた。

なに、本当はプロ入り二年や三年で本場所に出場できたらそっちの方が「奇蹟」なのであって、本場所に出られなくたって別に悲劇というほど大袈裟なことではなかったのだ。それまでアマチュア相撲でそこそこやっていたのが、一念発起してプロ入りした途端、思いもかけない大ブレークになったので、みんな本場所出場がどんなに大変なことなのかよくわからないままに、期待ばかりがふくらんでしまったのである。

つぎの本場所は隣村の韓国川といっしょに自分たちの村で開催してもらえたので、ご当所相撲の役得の特別番付で本場所出場が認めてもらえた。おらが村さの心強さもあってそれなりに活躍もできた。つぎの本場所ではこれより三役として取れるかもしれないと夢がふくらんだ。果たして、痔壺親方の薫陶もあって本場所出場がかなった。(近頃の相撲協会のトレンドと逆に、蹴鞠部屋では力士は日本人で親方がガイジンである)。

本場所前の稽古場で横綱の独逸龍の胸を借りたとき、ぐいっと寄ったら独逸龍が土俵を割った。オッ、これならひょっとするかもしれないぞ、といい気分になった。前頭5枚目の平幕力士だって稽古場でなら一度ぐらいは横綱に勝つこともあるだろう。しかし、一度や二度勝てたからといって、ふつうなら本場所の星勘定にそれを数えたりはしない。

前景気を煽るテレビ予報も、さすがに横綱独逸龍や伯剌西爾丸の強さは知っていたが、豪州盛や黒阿智山の実力がどの程度なのか、知ろうともしないで勝てる勝てると星勘定、ではなく皮算用に明け暮れた。だが対戦して見ると、どちらも前頭筆頭ぐらいの実力はありそうだった。勝てるかもしれないが、勝つに決まってますよ、というような相手ではどう見てもなかった。巨漢の豪州盛には、頭をつけて食い下がり、足癖で一度はぐらつかせたが、勝ち味が遅い悪い癖が出てしまいには上手を取られた。と思ったら投げ飛ばされていた。豪州盛は三十年ぶりの本場所出場だそうだ。それでもこんなに強いのだ。

黒阿智山の親方はダンディだった。わが蹴鞠部屋の親方は、いまの痔壺親方も前の賭留死江親方もその前のオカーダ親方も、どういうわけかおしゃれには無関心な朴念仁ばかりだ。まあ、強い相撲取りになるためには親方の身なりなどどうでもいいけれど。

冷静に考えてみれば、三戦零勝は実力通りの成績だったのだ。蹴鞠錦は実力なりの相撲は取ったのだ。1足す1は2であって、3にも4にもならなかっただけの話だ。蹴鞠錦は土俵の上に仰向けに倒れたまま涙を流したが、実は何もがっかりすることはないのである。

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わが時代劇映画50選(その4)『宮本武蔵・般若坂の決斗』東映1962、監督内田吐夢

錦之助・内田吐夢の『宮本武蔵』といえば、『一乗寺の決斗』か『巌流島の決斗』と来るのが通例だが、敢えて『般若坂』を挙げる。やや異を立てるのは、三分はへそまがり趣味からでもあるが、残る七分は、時代劇映画論の定番理論に穴を開けたいという私の願望への可能性をここに見るからである。

『般若坂の決斗』は、『笛吹童子』以来錦之助が担ってきた伝統的な若衆役者のイメージと、一方時代劇映画が当初から内蔵していた「反・歌舞伎」的自然主義とが、俳優錦之助の成長の過程で千載一遇的にマッチし、表面張力のように溢れようとして一瞬の緊張の中に捕らえた、稀有な「幸福の時」に作られた作品である。

武蔵が宝蔵院に赴き般若坂で浮浪浪人の群と闘うくだりは、吉川英治の原作では、姫路城に三年籠って宮本村の武蔵(たけぞう)から宮本武蔵へと脱皮した武蔵が、剣士としての第一歩を踏み出したところに当たる。ビルドゥングス・ロマンとしてはウィルヘルム・マイスターならぬ武蔵の修行時代ということになる。内田吐夢監督が武蔵の成長と錦之助の成長を重ね合わせて、五部作を五年がかりで製作したという話はよく知られているが、『般若坂』は第二部に当たる。

しかし錦之助の本質を「永遠の少年性」に見る私の観点からすれば、『般若坂』の瑞々しさは、自分の進むべき道を剣と定めて歩き出した武蔵と、映画俳優として自分の歩むべき方向を明確につかんだかに見える当時の錦之助が、この作品の上で、これ以上はない幸福な形で重なり合った精華のように見える。そこには、錦之助の持つ最良の資質が匂い立っている。そうして、それは二度と戻ることはない性質のものなのだ。(だがその後の映画界の激変は、錦之助に苦難に満ちた悲劇的な道を辿らせることになる。それを知っている「いま」から振り返るとき、ここに見るその瑞々しさは一層哀切である。)

『一乗寺』や『巌流島』を評価する人の気持がわからないわけではない。二度と返らぬといっても、まだこのころの錦之助は充分に若い。『般若坂』で見せた瑞々しさが失われてしまったわけではない。錦之助自身も『巌流島』をもって自分の目指したものの達成と考えたかもしれない。私の言うのは、『巌流島』で完熟する「それ」が、まだ幾分の青みを残している『般若坂』の方に、錦之助の本質を見るということである。完熟したトマトよりも、蔕の周りに幾分の青みを残したトマトにこそ、真の瑞々しさがあるように。そうして、その瑞々しさこそが、錦之助という俳優の真骨頂なのだ。

月形龍之介演じる僧日観の諭しに、武蔵は一筋の疑念を感じる。日観が経文を書いた石を投げ捨てて映画は終わる。そこに原作に対する内田吐夢の批判があり、その批判は知られるように『巌流島』で小次郎を倒した後の虚無へとつながっている。しかしここでの武蔵にはまだ虚無はない。その若さが、錦之助の瑞々しさと見事に重なっている。

月形の日観の見事さが武蔵の一筋の疑念を一層鮮烈にしているのも、演技者と演出の相乗効果としてこの上ない。また出番は少ないが、黒川弥太郎の胤瞬が五代目菊五郎みたいな役者ぶりで実に格好いい。

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随談第126回 蹴球偏痴気論

私はサッカーに対してやや冷淡な人間である。嫌いではないが、どうももうひとつ乗れないものがある。だから、ワールドカップでマスコミが大騒ぎしているのを見聞きすると,いっそ全敗して帰って来い、などとへそ曲がり気分がむらむらと起こってきたりする。

ところが本当にそうなりそうな雲行きになってきた。オーストラリア戦、クロアチア戦、どちらも見たが、一向に私のサッカー観を変更してくれそうにない。要するにかったるいのである。見ていていらいらしてくる。

戦前の予想をいろいろな専門家や事情通がしているのを聞くと、到底私などの出る幕ではないと思うのだが、敗戦後の批評を新聞などで(こんどはかなりつぶさに)読んでみたら、なんと私が思ったのと同じようなことが書いてあるではないか。してみると、頭を冷やして冷静に見れば、専門家もど素人の私も、似たような見方をしているのだ!

戦う前のテレビ予報は、要するに、敵は幾万ありとてもすべて烏合の衆なるぞ、という(何と!)日露戦争のときの軍歌と同じ、自分の都合だけから割り出した戦力分析なのだ。オーストラリア戦? 勝つに決まってるじゃありませんか。クロアチア戦? 勝たなきゃじゃなくて勝つんですよ。何回、何十人、何百人の人からこの手の論法を聞いただろう? 専門家から、通人から、サポーターと称する輩から。(いっそ負けちまえ! そのたびに、そう胸の中で呟くことが多くなった、胸苦しくなるほどに!)

ジョークだよ。戦う前から弱気なことをいうものではないからね・・・おそらく、そういう返答が返ってくるのだろう。他の問題には沈着・的確な論陣を張っているキャスターや評論家諸氏などからは。まあ、そうであると信じるとしても、言論や弁舌をもってマスコミに生きている人たちが、街角でインタビュア氏にマイクを突きつけられた街の人と、同じ論法でしかコメントしなかったというのは、どうも考えさせられる。

さてここからがいよいよ偏痴気論だが、私に言わせれば、サッカーとは本質的に見る者をいらいらさせるようにできているスポーツなのだ。だって五体満足な人間に、手を使うことを封じた上に成り立っているのだから。そうして(好きな人にとっては)そこにこそ、このスポーツが限りなく知的で、デリカシイに富んだ唯一無二のスポーツになり得た根源があるに違いない。能楽が、制約が多いが故に比類のない芸術でありえたように。

第二に、サッカーとは「徒労」のスポーツである。あれだけ長い時間、あれだけ大勢の人間があれだけ絶え間なく動き回って、たかだか二点か三点しか「実り」がないのだから。観衆はその間、絶え間なく希望(それ行け、そこだ!)と落胆(アーア、なんだあのシュートは!)を繰り返す。いらいら。そこにこそサッカーの魔物が棲んでいる。サポーター同士の喧嘩沙汰から果ては国家間の紛争にまで発展するのも、むべなることなのだ。

サッカーのプレイ中にもどかしくなったラグビー校の生徒がボールを手に持って走り出したことから始まったというラグビーの起源伝説は、私の「サッカーいらいら説」を裏づける有力な根拠だろう。しかしサッカーの魅力を知る者にとっては、ラグビーは、相撲の魅力を知る者がプロレスやK1に感じるものと、共通するものがあるに違いない。

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随談第125回 番外・スポーツ随談

ひょんなことから切符が手に入ったので、神宮球場にヤクルト=日ハム戦を見に行った。神宮で新庄を見るというのも交流戦のお陰である。交流戦にははじめ賛成ではなかったのだが、やってみるとなかなか悪くない。同じ新制度でも、パ・リーグが優勝をプレイオフで決めるのには抵抗感が残るが、交流戦にはマイナス要素は見当たらない。

シーズン・シートのいい席でもあったし、ヤクルトは快勝するしで、まずは充分に梅雨の晴れ間の一夕を楽しんだ。先発投手は両軍とも新人だったが、終盤になってから木田だの岡崎だの高津だの、両軍おなじみのベテランを繰り出してきたのはサービスとしてもなかなかだ。新庄はこの日は200号本塁打がかかっていながら快打が出なかったが、9回に高津が投げたのをファウルした飛球が至近距離に落ちたのは、グローブを用意してくれば捕れたかもしれないのに残念だった。(高津が投げ、新庄が打ったボールですよ。)

ひとつ改悪があった。ビジターチームのメンバーは従来どおり女声のアナウンスがするのに、ホームチームのは男声が例のアメリカナイズした口調で放送することである。あの(かつてはウグイス嬢といった)独特の調子は、プロ野球の雰囲気を醸成する一要素としてすでに欠かせないものになっている。歌舞伎や相撲の拍子木をブザーやチャイムに切り替えたらどうだろう? 大体あのアメリカンスタイルのアナウンスは聞き取りにくい。(だってあれは英語のイントネーションなのだから。)

サッカーは私はどうしてものり切れないところがあって、この騒ぎの中でやや覚めた心境でいるのだが(それにしても天皇皇后が出発前の選手を宮中に招いたのには驚いた。成果を挙げての帰国後ではない。こんなことが他の種目にあっただろうか)、それでも対オーストラリア戦は見た。まあ相撲でいえば、把琉都みたいな巨漢相手に低く食いついてマワシを与えず、足癖で一旦相手をぐらつかせたりして善戦していたが、結局は上手を取られて放り投げられた、というところだろう。(栃東が緊張のあまり自縄自縛になって、さほどでもない相手によくああいう負け方をする。)

善戦ではあってもああいう戦い方では勝ち目がないことは、私のような素人目にもわかる。むしろ素人目だから判る、ということもあるのではないか。専門家の解説を聞いていると、ときどき、そんな不遜な考えを抱きたくなることもある。(もしかしたら、歌舞伎についてもそういうことがあるかもしれないね。)大体、昔から日本のサッカーはボールを回してばかりいてなかなか攻めようとしない悪い癖がある。この数年の進歩は凄いと思うが、こういう試合ぶりを見るかぎりでは、かったるさは相変わらずだ。

先日の新聞で沢田文吉選手の死を告げる小さな記事を見つけた。日本が戦後はじめて参加したヘルシンキ・オリンピックで、棒高跳びで6位になった人だ。このときの日本はみすぼらしい成績だったが、陸上競技では、この沢田選手と、女子円盤投げの吉野トヨ選手の二人だけが入賞したのだった。ふたりとも戦前からの選手で中年の大ベテランだったが、当時での沢田の6位と吉野の4位というのは、いまならメダル獲得に匹敵するだろう。

しかしこういう話はいずれ『20年代列伝』でゆっくりした方がよさそうだ。

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随談第124回 観劇偶談(その60)ロンドンの劇評

このほどロンドンで行われた海老蔵と亀治郎による歌舞伎公演を見てきたという人から、ロンドンの新聞に載った劇評をお土産に頂戴したので、読んで見るとなかなかおもしろい。ホテルにあったのをたまたま見つけたということで、当然、このほかにも出た筈だから、あくまでもワン・オヴ・ゼムであって、これひとつでロンドンでの反響の如何を判断するわけにはいかない。そういうことではなく、ふたりの演じた歌舞伎をむこうの人間がどういう風に見、捕らえ、評したかという観点から、紹介がてら書いてみよう。

サドラーズ・ウェルズという劇場で、演目は海老蔵の与右衛門に亀治郎のかさねという『かさね』に、海老蔵の『藤娘』。『藤娘』は先月歌舞伎座で、『かさね』は4月に金比羅歌舞伎で出したばかりの、彼らとしてもほやほやの役々である。

評者はZoe Andersonという人だが(Zoeの“e”の字にウムラウトがついている。何と読むのだろう? アングロ・サクソン系の名前ではなさそうだ)、亀治郎を絶賛する半面、海老蔵には辛辣な点をつけている。何しろ見出しが「Kabuki’s new star is eclipsed」という。つまり亀治郎のために海老蔵という太陽が日食になってしまったというわけだ。宣伝用のチラシや、場内で売るパンフレットをみても焦点ははっきりとEbizo Ichikawa XIに絞り込まれていて、Kamejiro Ichikawa IIは相手役をつとめるための共演者という扱いだから、eclipse という比喩的表現もそこからきている。評者は亀治郎演じるかさねにいたく心を奪われたらしい。日本ではEbizo XIは若い観客を古いart formに引きつけ歌舞伎リバイバルをもたらしたセレブリティだが、しかしこのプログラムでの最上の瞬間は共演者Kamejiro Ichikawa II がもたらした、という具合である。

「与右衛門が恋人のかさねを刺すと、かさねはouter kimonoの袖を下ろしsecond silk robe の腕と肩をみせる。白地に紅い楓の葉の模様が描かれているデザインが血したたったように見える」とか「傷ついたかさねは観客に背を向けて、両膝をそろえたまま土手を滑り降り、絶体絶命のように背を反らせる。Kamejiro IIはそれを一息に演じるが、その動きは大きくしかもやわらかだ」といった表現に、評者の関心のありどころと何をよしと見ているかが窺える。「復讐心に燃えるかさねは、われわれの見守る前でぐーっと背が伸びるように見える」などとも書いている。

Ebizo XI は力強いがKamejiro IIの卓越した流れるような動きには欠けている。逃げるときも脚を高く踏んで駆ける。クレッシェンドはスムーズではないがイムパクトはある、などと評されている。どうやら評者は亀治郎の息の詰んだ、女形ならではのなめらかな仕種に魅了されるあまり、与右衛門のかっきりした仕種には目を向けていない様子である。藤娘にはさらに点が辛く、仕種は正確で首や肩の動きは流れるようにエレガントだが、イメージがヴィヴィッドでなくあまり説得力がないと切り捨てている。

結局、今度のパフォーマンスが文化のバリアを越えたのは『かさね』においてだけで、総合点は星三つというのが、この評者の結論である。

フーム、という感じですかね。

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随談第123回 観劇偶談(その59)

今月は新聞に歌舞伎座評を書く以外にはお座敷がかかっていないことでもあり、新聞評ではそこまで論を広げているゆとりのないあれこれを書いてみよう。

幸四郎が夜の部のはじめに『暗闇の丑松』をやる。昼の切りが仁左衛門の『荒川の佐吉』だから続けて見ると続編みたいだ。一度は相政の説得にいさぎよく卯之吉をあきらめて旅に出た佐吉が、途中で人間不信に陥って真っ暗闇の丑松になったのだ!

しかしこの冗談はまんざら故のない話ではなくて、佐吉にしても丑松にしても、およそこの世にありえないようなピュアなものを求めて自分を追い詰めるばかりか、相手にもそれを要求するというところが共通する。つまり佐吉と丑松は心性の点で同人種なのであり、前シテの佐吉が、後シテで丑松に変じて登場したってあながち不思議ではない。

それでも、佐吉が鐘馗の仁兵衛のふたりの娘を拒否するゆくたては、舞台を見ているかぎりでは納得できる。しかしあのふたりの女を見る作者の目には、単にすぐれた作者のシビアな人間観察眼というだけではない、女性に対する「観念」と化した思い込みがありはしないか? 一方丑松となると、どう考えたってかわいそうなあの薄幸なお米をあそこまで追い詰める丑松という男に、これまでいろいろな役者の丑松でこの芝居を何度見たか知れないが、最後まで納得できたことは、じつは私はいちどもない。

『四谷怪談』の作者は、淫売婦になった女房のお袖に地獄宿で出会って詰る与茂七の身勝手を、ちゃんとお袖に批判させている。だが丑松の作者はお米に弁明の余地を与えないだけでなく、四郎兵衛の女房お今(のようなお米とはひとつになりっこない女)の中にお米と共通するものを見出して「女というもの」への不信を確信から「観念」へとダメ押しする。丑松はお米という目の前にいる人間を見ないで、「女というもの一般」という観念を見たのだ。この丑松の「観念論哲学」は、どれだけ普遍性を持ち得るだろうか?

『荒川の佐吉』でほっとしたのは、相政を菊五郎がやっていて、この人のいい意味での常識性が、浮世の処世に長けた「市井の良識」の代表者として、これ以上理屈を言い合っていたら収集がつかなくなってしまう芝居を終わらせるためのデウス・エクス・マキーナとして、まことに程がいいことである。(それつけても菊五郎の幕の切り方の巧さというものは大したもので、これぞ座頭の芸というものかと、私はじつに感じ入った。)

以前、十三代目仁左衛門とか島田正吾などの老名優がやったときは、佐吉を説得する「世俗の知恵」があたかも神韻縹渺とした神の言葉のように聞きなされてしまって、佐吉でなくとも、頭を下げたくなってしまいそうだった。十三代目や島田は、役の上の相政よりはるかに突き抜けてしまっていたのだ。

吉右衛門意欲作の『藤戸』についても、気になることがある。後シテの藤戸の悪龍というのは、盛綱が殺した漁夫の霊が変じたもので、筋書には、経文を唱える盛綱の功徳によって成仏得脱して姿を消すと書いてあるが、舞台を見た目には、『船弁慶』と同じように、祈祷によって退散させられたように見える。これは作者松貫四がそのように書いたのだろうか。それとも役者吉右衛門が(演出効果のために)そのように変更したのだろうか。

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随談第122回 観劇偶談(その58)今月の一押し(2)

染五郎の放駒を押す。候補としては、三越歌舞伎の『車曳』で梅王丸をかっちりと、勢いを失うことなく演じた猿弥がよかったし、敢闘賞的な意味で国立の鑑賞教室の『国性爺合戦』の甘輝でほおと思わせた信二郎という手もある。

松緑の和藤内も大分しまってきた。それに先月の『江戸の夕映』での好演(あれは本当によかった。あの堂前大吉という旗本の役は単なる狂言回しではなく、海老蔵のやった本田小六とコインの裏表のように対照され、じっと思い屈している小六の代わりに動き回ることによって芝居を進行させ、劇の奥行きを明らかにする。ある意味では小六よりも複雑な役なのだ、ということをちゃんと感じさせた松緑というものを見直させるに足る好演だったといって過言でない)に報いなかった埋め合わせの意味も合わせて松緑ということも考えられる。またまったく別な観点から、パロディの高踏的な面白さをのどかに、品位をもって演じ、別天地に遊ばせてくれた梅玉・魁春・時蔵による『二人夕霧』をとも思ったのだが、敢えて染五郎といくことにしたのには理屈がある。

甘さと客気。長吉という役を一言でいえば、この両面を兼備して活気よくつとめるのが身上だろう。覇気と甘さ。染五郎という役者のチャームを一言でいえばそれだろう。客気と覇気は、かなりの部分、重なり合う。すなわち、放駒長吉は市川染五郎とかなりの部分、重なり合う。べつに「地でいっている」というのではない。しかしいわゆる「仁にある」と敢えて言わないで、こういう言い方をしたくなるところに、染五郎の放駒のよさと魅力の根源がある。

放駒といえば五年ほど前、博多で見た海老蔵のが忘れがたい。そのことは『新世紀の歌舞伎俳優たち』という本に書いたが、その放駒は、客気というよりも、濡髪という「おとな」が受け容れている「分別」の中にひそんでいる「世間知というもののいやらしさ」に怒りをぶつけるといった趣きだった。つまり、その前に演じて大ブレイクのきっかけとなった助六がそうであったように、この放駒もまた「怒れる若者」であった。そういう、役の中にひそんでいる本質を実存的に「露わにしてしまう」ところに、少なくとも当時の、海老蔵という役者の根本があった。

染五郎の放駒も、濡髪の「おとなとしての部分」を感じて「きたない」と叫ぶ放駒である点では、海老蔵と重なり合う。しかし同時に、海老蔵にあって染五郎になく、染五郎にあって海老蔵にないものは何かといえば、一方が「破綻の美」であり、もう一方は「均衡の美」だろう。もちろんここでいう「美」とは、視覚で捕らえうる美ではない。それはたぶん、彼らふたりの人間性に通じ、役者としての資質に通じているだろう。それはやがて、歌舞伎用語としての「仁」にも通じているかもしれない。いや通じているに違いないのだが、いきなりそう言ってしまったのでは指の間からこぼれてしまう何かを感じさせる。

と、こういう「しちめんどくさい」ことを考えさせる放駒であるのは、染五郎のもつ現代性の故だが、しかしそれにも拘らず、現象としてのその舞台ぶりが、じつに「のほほん」とした放駒であるところが、じつは私が最も気に入っている所以なのである。

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随談第121回 昭和20年代列伝(第3回)

新聞小説の話をつづけよう。前回は、連載小説を読む味をおぼえたとき、たまたま連載が始まったのが石川達三の『悪の愉しみ』だったという話をしたところまでだったと思う。中学1年生が始めて読んだ大人の小説が、漱石でも藤村でも武者小路実篤でもなく(というあたりが、当時の中学生が最初に読むブンガクの相場だった)、しがないサラリーマンが自動車強盗をするという小説だったというのも、めぐりあわせというほかない。

しかしこの『悪の愉しみ』はなかなかおもしろかった。学歴も教養も収入も生活もすべてが「普通」の平凡な男の心情が、じつにわかりやすく、納得できるように書いてあった。しがない中年男の心情がよくわかったというのも妙な話だが、要するに大人の小説というのも別にむずかしくないのだなということを知ったのである。

自動車強盗というのが、いかにもこの時代を語っている。たしか主人公は細紐を用意してタクシーに乗り込み、うしろから運転手の首を絞めて売上金を奪うのだった。それを決意するところで、この主人公が戦場で敵兵を四人、銃で殺した経験の持ち主だった、とさりげなく書いてあるのと、犯行のあと、妻や会社の同僚などが留置所に面会にくるところで、部下で愛人の女性が聖書を差し入れるという箇所があって、その平凡な発想に主人公がフンというような気持になるという場面があったのを、面白いと思った。

この作品は、作者がその前後に書いた『氷壁』とか『四十八歳の抵抗』とか『自分の穴の中で』などといった評判作に比べるとあまり話題にならなかったが、そうした問題作よりも、いまなお私にはなんとなく愛着がある。

思えばその当時は新聞小説の黄金時代であったので、各紙はつぎつぎと話題作を連載し、食卓で大人たちがその噂や評判をするという光景は、たぶん我が家だけのことではなかったに違いない。朝日にはいまだれが何を書き、読売にはだれの何が連載中だというようなことを、大人の会話をそ知らぬ顔で聞いている小学生の私が、あらかた知っていたのである。べつに我が家に格別の文学趣味があったわけではなく、新聞小説というものがそれだけ社会一般の関心事だったのだ。

新聞小説に欠かせないのは挿絵だが、これも話題の対象だった。同じころ朝日に村上元三が『源義経』を連載していたが、木下二介(じかい)の描く駿河次郎や伊勢三郎は、村上元三の筆をはるかに越えて、決定的ともいえるイメージを読者に植え付けた。「蟹」という仇名の伊勢三郎の風貌は、大相撲の行司や、のちに入学した大学の教授にそっくりな人物を見出して、「骨相人類学」と自称するひそかな愉しみを与えてくれることになった。

連載小説を読むのはめんどくさいという人がいるが、おそらくそういう人は、この新聞小説黄金時代に読者として居合わせなかったのだろう、という独断を私はしている。もっとも私も、いまの連載小説を読むのはときにめんどくさい。それは、新聞小説というものが、かつてのような社会的な現象ではなくなったために独特のオーラを失ってしまったからだろう。小学生の私が、ふと目覚めるとそこにそれがあった、という感じで石川達三などを読みはじめたのも、そのオーラのなせる業だったに違いない。

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