中村錦之助という役者の本質は永遠の少年性にある、と私は思っている。後年萬屋錦之介と名を変えて重厚そうに振舞う錦之介を見ながら、永遠の少年の影をそこに読み取ってしまう私は、違う違うと呟きつづけていた。『ゆうれい船』では、錦之助はまさしく少年の役を演じる。これ一本というなら、錦之助映画で私はこれを挙げる。錦之助の、魅力と芸の源泉がここにくっきりと現れていると思うからだ。
原作は大仏次郎が朝日新聞に連載した小説だが、「鞍馬天狗」なら『角兵衛獅子』や『山嶽党奇談』がそうであるように、これもまた、大仏の少年小説の系列に属する一篇で、です・ます調で書かれている。大仏の少年小説というのは、ロマン性に対する作者独特の理想主義が、最も端的に現われた一分野である。錦之助の持つ純粋な少年性が、最も幸福な形で、原作の香気と反りを合わせている。
錦之助の役は次郎丸という少年で、堺の船乗りだった父親が海上で消息を絶ち、叔父の五郎太夫を頼って京の都に出てきたところから始まる。都は打ち続く戦乱で焼けのが原、呆然としていると鬼夜叉という浮浪児と知り合う。鬼夜叉は次郎丸のやや兄貴分ぐらいの少年だが、この役を何と三島雅夫がやっている。俳優座の、当時すでに長老格だったあの三島雅夫である。誰の案か、この配役は絶妙である。
頼った叔父の五郎太夫は、足利将軍を倒して天下を奪った松永弾正に取り入って財をなす悪徳商人と知れる。一方、貧民を指揮する一揆の首領がじつは男装の姫君で、弾正に滅ぼされた三好家の雪姫、その三好に滅ぼされた佐々木の嫡流だが姫の心情を知って助力をする闊達な快男児佐々木左馬之助、といった人物が善玉方として次郎丸の前に登場する。松永弾正が月形龍之介、五郎太夫が進藤英太郎という鉄壁の悪の枢軸。雪姫が長谷川裕見子、左馬之助が大友柳太朗とこちらも切って嵌めたような配役。さらに前編では回想としてしか出てこないが次郎丸の父親が大河内伝次郎と、いかにもよき時代の東映ならではだが、1957年のこの年を中心にした前後数年間が、その黄金時代である。
配役もさることながら、こう述べたストーリイも、いかにも血湧き肉踊る雄渾なロマンを感じさせるだろう。監督の松田定次は東映調娯楽映画の定番を作った上質の職人監督であり、一種名人芸の域に達していたが、じつは大仏文学の香気というようなことを言い出せば、問題がないわけではない。向かっている方向が違っている。だがその間隙を優に埋めているのがこの当時の錦之助の、ちょっと類のない純粋性と躍動感である。明るく闊達でありながら、というより、明るく闊達であるがゆえにこそ、涙さえ誘われるような響きがある。感動とは、英語ではmovingだが、つまり人の心を動かすという意味であることを、この錦之助を見ていると思い出させてくれる。
前編のラスト、去ってゆく父親の船に向かって叫ぶ次郎丸少年の、人を恋い、遠いものにあこがれるかのような姿が、錦之助そのものと重なり合う場面が印象的である。この場面に流れる深井史郎の音楽が名曲で、ひところ、民放テレビのテストパターン曲に使われていた。但し名作なのは前編だけであって、後編は凡庸な活劇に堕してしまうのが惜しい。