随談第95回 スポーツ随談(その4)

やれやれという感じでようやくオリンピックが終わりそうである。オリンピックそのものは嫌いではないが、マスコミ、とりわけテレビの絶叫ととめどもない繰り返しには辟易する。荒川が金メダルを取った日、あの映像を何度見せられたことか。というと、それならテレビを見なければいいと言い出すしたり顔のインテリが必ずいるが、スポーツ番組に限らずあらゆる種類の番組で同じことを繰り返す愚を言っているのだ。

(「それならテレビを見なければいい」というインテリ好みの論法はあきらかに論理のすり替えである。同じ論法で、それなら芝居を見なければいい、ブンガクなど読まなければいい、新聞を取らなければいい、投票をしなければいい、という論理が成立する筈だ。)

さすがに、メダル何枚と番町皿屋敷よろしく枚数を数えるのは、数えたくとも数えようがなかったせいもあって、途中から控えたが、横綱に一度や二度勝ったからというので平幕力士を優勝の可能性ありみたいに言いはやしすぎるのだ。これは今度に始まったことでもなければ、マスコミだけに限ったことでもない。各ジャンルの連盟だか協会だかに責任の第二があり、第一にはオリンピック協会(というのかな。とにかく日本のオリンピックを仕切っている総元締の組織)にある。

底辺拡大のために弱小の種目でも選手を送ろうというのはたしかにあるだろう。しかしあきらかな力量の違いを過小に見積もってメダルの皮算用をするのは、真珠湾の奇襲に成功したからといってアメリカに勝てると宣撫するのと、図式としては相似形である。この前面構えが好いと言ってほめたスケートの岡崎だって、得意の500メートルにしてもいいところ関脇、大関ではないだろう。(最近の大相撲なら大関になれるかな?)

しかしまあ、荒川はたしかにたいしたものだと思った。他が自滅したせいもあるが、悠然とした演技は圧倒的だった。トーランドットという選曲がよかったとは荒川に得意の電話をした小泉首相の弁だが、すくなくとも威風堂々の感を与える上で役立ったことはたしかだ。これまでインタビュウなどで見せるシレッとしたものの言い方がときに人を鼻白ませるきらいもあるが、よくいえばそれだけ自我が強いのだろう。

それにしても、日本の女子選手も立派なプロポーションになったものだし、技も素人目にも立派になったものだ。ついこの間までの日本の女子選手といえば、お尻を突き出した格好で斜め後ろを見ながら後ろ滑りばかりやっていて、見ているこちらがいい加減いらいらした頃に、やっと決心がついたようにエイッとジャンプする、というのが相場だった。

これは外国勢のことだが、リンクサイドで待ち構えるコーチだかなんだかの女性が、以前はミンクだの何だの豪勢なコートを着て、いかにも上流階級のスポーツでございという顔をしていたものだが、そういう光景はすっかり影を潜めたようだ。

それにしても冬季大会もずいぶん種目がふえて、日本が弱いせいもあって、本来なら華であるはずのアルペンやノルディック種目などの影を薄い。開会間もなくにあった複合の距離競技で、二位と三位の選手が靴の差の接戦だったのが、競技としては一番おもしろかった。

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随談第94回 スポーツ偶談(その3)

「時代劇選」は急かず慌てず進めることにして、オリンピックも半ば終わったところでそっちの話にしよう。もっとも、日本選手の成績や戦いぶりについての床屋政談風論評はすでにかまびすしいところで、いまさらそれに加わる気はない。

もちろんすべてを見たわけではないが、いままで見た中で一番、というよりも抜群に印象的なのは、女子スケートの岡崎選手の面魂である。とりわけ、500メートルで惜しいところで4位に終わった瞬間の顔がよかった。顔は笑っている。しかもその笑顔は、照れ笑いなどでなく、自分を見ている他者への気遣いの笑顔である。しかし同時に、戦う者としての無念が噴き出してくる。笑顔は同時に、自分に対する苦笑でもある。笑いだけが仮面のように貼りついているのではなく、その証拠に目もちゃんと笑っているのだが、その傍から負けじ魂がこみあがってくる、といった風情だ。

あの苦笑の中には、いくつもの心理や意味が読み取れる。まあ、だれでもができる笑いではない。肝が据わっていないと、ああいう顔にはならないに違いない。少なくともこんどの日本選手の中で、ああいう風に、内面と外面が高度に緊張し合ったいい表情というものは、まだほかには見当たらない。まさに「面魂」という言葉がふさわしい。

岡崎についでは、カーリングという奇妙な種目の主力のふたりの、きわめて庶民的なおねえちゃん風の中に根性が貫いているような顔がいい。人ごみでドジな巾着切りの腕のひとつも捩じ上げてしまいそうな、時代劇にでも出てくるおねえちゃんみたいで、なかなか愛嬌がある。彼女たちも、凄い集中力と他者への意識が、緊張感の中に見事に均衡が取れている。自分の中に閉じこもってしまうのではなく、他者がいて自分がいて、その中で自分を貫いているという、その感覚がおのずからチャームになるのだ。

最近の、とくにNHKの若手のアナウンサーのインタビューに著しいが、自分(たち)であらかじめひとつのレールを決めておいて、その方向に話題だけでなく、相手の答えをも誘導していこうとする、悪い傾向がある。今日のオリンピック特集を司会した男女のアナウンサーもその典型で、何でも「誓い」とかいうテーマが決めてあって、これまで活躍したり不本意な結果に終わった人気選手をとりあげては、人情美談という箱のなかに収めてしまわないと気に入らないらしい。

ところが今日の番組の目玉は、岡崎とのインタビュウだった。岡崎はちゃんとできた人間だから、笑顔で抜かりなく応対はする。しかしたとえば、自分のレースの映像が出ると、もう目は笑っていない。レースを終えてまだ間もない岡崎にしてみれば、この映像をつい食い入るように見つめることになる。その岡崎の表情を見て、なぜ(仮に予定にはなくとも)今でなければ訊けない質問をしないのだろう。「誓い」とかいう予定通りの質問をくりかえし、人情美談に仕立てることしか頭にないらしいインタビュアというのは、一体なんなのだろう? スタジオの中とはいえ、まだ戦う者の顔をゆるめていない岡崎の面魂に、つまらない質問が、鉄壁の前に撥ね返されるひょろひょろ矢みたいに空しく落ちてしまうことに、気づかないのだろうか。

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随談第93回 映画噺(その2)と新連載予告

このところテレビで旧作の映画を見る上で収穫に恵まれた。

第一は『白扇―みだれ黒髪』である。封切は昭和31年3月、私はちょうど中学を卒業目前で、いまのサンシャイン・シティの入り口前あたりにあった池袋東映で見ている。中村錦之助の『源義経』第2部と同時封切で、錦之助・千代之介時代の真っ盛りのころだが、しかし東千代之介主演のこの映画はお子さま相手の安物ではなく、なかなか乙な大人向きの佳作である。昭和40年代半ばに東映が全作品を放出したときテレビで一度見たきり、再会の機会がなかった。去年の八月にNHKのBSで放送の予告が出たのだが、突如あの郵政民営化法案の国会中継のために放送中止になってしまうという不運に会い、一旦あきらめていたのだった。

原作は朝日新聞の連載小説だが、作者の邦枝完二は高橋お伝を書いた『お伝地獄』が傑作として知られているが(これは面白い。嫌味なまでに巧いあの文章のところどころを筆写した覚えがある)、『白扇』も、おそらくいま読んでも充分読むに耐えるに違いない。古書店を気をつけているのだがまだ巡り合っていない。完二が木村功の岳父ということを知ったのはだいぶ後になってからだが、イメージが結びつかなくて不思議な気がしたものだ。

『白扇』は『四谷怪談』の前日談という趣向になっていて、映画では千代之介の伊右衛門が長谷川裕見子の妻を裏切ってその妹と密通をしているという一部始終を作者の鶴屋南北が知り『四谷怪談』のストーリイを思いつくのだが、南北を坂東蓑助、つまりのちの八代目三津五郎がやっていて、この配役がものを言っている。千代之介とは坂東流の踊りの方での師弟関係なので、当時はよく東映の映画に出ていたのだ。たしか『サムライニッポン』で千代之介の新納鶴千代に井伊大老なんかもやっている。

今月はまた、時代劇チャンネルで嵐雛助が人気絶頂のころに撮った『田之助紅』に巡り合うという思いがけないことがあった。十七代目勘三郎の門下から出世して大名跡を継ぎ関西歌舞伎で幹部の扱いになった当時のことで、まさか見られるとは思っていなかった。つぎに溝口健二が昭和29年に撮った『噂の女』という現代劇で大谷友右衛門、つまり雀右衛門が、田中絹代と久我美子の母娘の間を遊弋するアプレゲールの医者の役をやっているのに出会った。この友右衛門がなかなか巧いのである。ご本人は嫌がるかも知れないが、雀右衛門の映画での業績というものもきちんとしておいた方がいいと思う。

ところで「新連載」というのは、作秋出た川本三郎氏の『時代劇ここにあり』という本にならって(ちょっぴり対抗して)『わが時代劇映画五〇選』と題してこのブログで始めようかということである。川本氏のはかなりの「ますらをぶり」で、それはそれでもちろんいいのだが、ちょいと技癢も感じる。私のはやや軟派ぶりに傾くかもしれない。50選というのはまずそれぐらいかなという見当。連載といっても、当然だがそればかりに専念するわけではないから、断続的な形になるわけで、その意味ではこれまでの「映画噺」と同じだが、もう少しきちんとした形にまとめようということである。

というわけで、第一回はまず『白扇』からはじめよう。

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随談第92回 スポーツ偶談(その2)

オリンピックが始まって、始まってしまえばもともと好きな方だから、まあテレビを見ることになる。

毎度のことだが、放送を聴いていていつも気になりもし、同時に面白いのと思うのは、解説者が「いいですね、いいですよ、いけいけ、大丈夫です、さあこれからだ・・・いいですよ、いいですよ、ああ残念でしたね」といった経過を辿ることが多いことである。今度の大会はいまのところ日本選手が期待ほど振るわないからなおさらなのだが、しかしいま私に興味があるのは選手の成績の話ではない。つまり、同じ批評をする人間として、解説者のこの「ぶざまさ」が他人事ではないのである。

スポーツの場合、何と言っても寸秒を争うレースと同時に喋るのだから無理もないといえば無理もないのだが、その証拠にレースが終わって少し時間がたってからだと、さっき「いいですよ、いいですよ」を連発していた同一人が、あそこが悪かったここが失敗だったと、したり顔で敗因の分析などをしているのを見ると、正直なところ、何を尤もらしいことを言ってやがるという気がしないでもない。それなら何故、さっきは「いいですよ」と言ったのだ! ということになる。

つまり寸秒を争う咄嗟の場合という条件の他に、もうひとつそれ以上に、解説者の人格が分裂しているということである。レース中に喋っているときは、当然ながらまず自分自身の期待感がある。同時に、視聴者の期待にも応えたい、というような善意の配慮も働いているだろう。更には、解説をするほどの人なら、その種目の業界(!)の何らかの関係者であったりすることも多いから、そういう場合だと、ここでこの選手にメダルのひとつも取ってくれなくては困る、というような「邪念」だってあるに違いない。その他、もろもろの思いが重なり合って、つい「いいですよ」を連発することになるのだろう。二重人格どころか何重にも分裂しているわけだ。(民放によくあるように、日本のスタジオにいて、尤もらしい「しゃべくり」をしている連中はこの際別にしよう。)

さてここで問題は、業界関係の事情みたいなことはこの際別としても、応援したいという気持と、解説者さらには批評家としての心情との関係である。解説者・批評家としては、「いいですよいいですよ」を連発しながら「ああ、残念でしたね」で終わるのは、みっともないし無責任といわれても仕方がないだろう。しかし体操やフィギアスケートの解説者にありがちのように、競技中にすかさず、ア、ここで0コンマ1減点ですね、などと妙に感情を押し殺したような声でやるのも、あまり愉快なものではない。(しかしこの手の批評が一部のオタク風のファンの支持を得るのも、昔から必ずあることであって、だから「したり顔批評」というのも、批評として一応成立するのである。)

むかし森鴎外の弟の三木竹二という批評家は、どんなに厳しく批評をしてもいいが、本人と顔を合わせても毅然としていられるように書けと鴎外から言われたそうだが、厳しいか甘いかという以上に、肝心なことは、この「いいですよ」と爾後の客観的分析との関係にあるような気がする。

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随談第91回 スポーツ偶談(その1)

テレビをつけたらちょうどニュースで、元巨人の監督の藤田が死んだというのでホオと思った。格別のファンというわけではないが、「あの時代」のスターのひとりとしてという意味では、こよなく懐かしい一人だ。「あの時代」とは巨人の監督時代のことではなく、六大学から巨人のエースであった昭和三十年代前半の(つまり『ALWAYS 三丁目の夕日』と重なり合う)日日のことである。

当時の六大学野球というものは、いまの人が考えているようなものとは随分違っていて、すでにプロ野球には抜かれてはいたが、人気の点でもスター選手のあり方でも、マスコミはもちろん社会の中でも華やかな存在だったのだ。(もう少し前の20年代だったら、「野球を見てきた」というと、少し野球音痴の従姉妹などが「どっちが勝った? ワセダ? ケイオー?」などと返事をしたりということが、すこしもおかしなことではなかった。)つまりプロ野球が六大学野球に野球というものの代表として完全に取って代わったのは、戦後数年かかってのことだったのであり、藤田や大沢や長嶋・杉浦や秋山・土井の時代というのはちょうどその端境期の、六大学野球最後のグッド・オールド・デイズであったことになる。慶応のエースというだけで、社会的な著名人でありえたのである。

いまでもたまに話題となる早慶六連戦というのは私が大学1年の秋のシーズンのことで、それもそれでなつかしいが、いまここでいうのとはちょっと意味が違う。自分の同世代にスターを求めるという感覚は、個人としても、当時の普通の感覚としてもあまりなかったから、あこがれのスターというのは、スポーツの選手であろうと映画スターであろうと、自分より年長の人々だった。藤田が慶応のエースだったときこちらはまだ中学生であり、巨人のエースだったとき、こちらは高校生だった。投球フォームの綺麗さがちょっと類がなかった。(ニュースでも当時の画像がちょっと出たが、記憶に間違いはなかった。現代まで含め、フォームのきれいなピッチャーという点で、何人かの中に入るだろう。)

昭和31年から巨人が西鉄に三タテを喰らった最初の年のエースはまだ別所で、そのシリーズで中西・豊田らにコテンパンに打たれて急速に老け込んでしまい、その翌年に藤田が入ってきてすぐエースになるが、稲尾の前にはかなわない。34年には杉浦の南海ホークスに4連敗をしたときも、藤田がエースだった。つまり藤田は、第一級のエースではあったが、つまりエース中のエースという存在にはなったことがない。

巨人の監督としても、一回目は長嶋の、二回目は王の、いわば尻拭いをしたわけだが、それまで散々長嶋や王の監督としての不成績を叩き、からかっていたマスコミが、退任と決まると急に同情的な論調に変わって、藤田が不人気はまだしも、悪役扱いされるのを見ていると、世間というものの不可思議さを思わずにはいられなかった。考えてみると、もうその当時、藤田の現役時代を知るファンというのは、あまり声高に物を言う年齢ではなくなっていたのかもしれない。スターというのは、往年の姿を知るファンがいてこそのスターなのだ。しかしまあ、いま冷静にその業績を振り返れば、正当な評価が改めてされるようになるかも知れない。

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随談第90回 観劇偶談(その42)

連日の観劇やら原稿書きやらロング座談会の校正やらでついご無沙汰をしてしまった。

その連夜の観劇のひとつ、新国立劇場で『ガラスの動物園』を見ながら思ったことだが、いまさら知ったわけでもないが、この作品が初演されたのが1945年3月(つまりその頃、アメリカは日本と、というか日本はアメリカと、まだ戦争の真っ最中だったわけだ)で、舞台の設定が1930年代ということになっている。作者自身が半自叙伝的追憶劇と言っているのだから、当然といえばそれまでだが、昨秋に見た『夜の来訪者』にしても、近代の欧米の演劇にはこうした近過去に設定した舞台が多いことに改めて思い至った。

これはどういうことなのだろう? 戦争とか、とくに何か歴史上のことを扱うなら別だが、少なくとも直接にはそうした重大事件とはかかわりのない日常茶飯を題材にしているにもかかわらずである。現代劇とは、ある意味では半過去劇であるとも言えるかも知れない。

今度の『ガラスの動物園』では、ナレーターのトム役の初老の木場勝巳が、そのまま青年時代のトムを演じるという演出になっているので、現在と近過去が二重に重なり合い、いやでも見る者は時の経過を意識せざるを得ない。姉であるローラが妹どころか娘といってもよいほどに見え、母のアマンダがむしろ夫婦のように見える。当然、職場の同僚のジムは娘の恋人か友達のようだ。その時間と歳月の距離がいつも見えているところが面白かった。

リアリズムといっても写実劇ではないから、時代を忠実に再現する必要はない。舞台に置かれているセットも別に三十年代でなくとも、六十年代といったって通用する程度のものだ。そういう、歴史上の過去よりも、トムにとっての十何年か前、という方がこの場合意味を持つ。あるいはむしろ、日本で日本人の俳優たちによって日本人の観客の前で演じるには、六十年代ぐらいの方がちょうどいいともいえる。イリーナ・ブルックとノエリ・ジネフリという、ふたりの外国人女性による演出と美術が、今度の場合、そうした距離感を中和しながら、特殊性よりも普遍性の方を観客に意識させる上で、物を言っている。

そうはいっても、母親のアマンダという役は、日本の女優が演じるのに厄介な役に違いない。ジムという「青年紳士」(というコトバの響きが、何度もアマンダの口から繰り返されるたびに気にならざるを得ない。小田島雄志さんもこの訳語にはさぞ困っただろう)を迎えるために、娘時代のドレスを着て現れるというあたりはどうしたってテネシー・ウィリアムズの風土の匂いを抜きには見ていられない。木内みどりという女優さんには好感を持っているつもりだが、ここはいかにも見ていて気の毒になった。プログラムに谷林真理子氏がジェシカ・ラングの演じたアマンダの存在感について書いているのを読んでも、さもありなんと思わざるを得ない。母親がやはり一番風土と密接な存在なのだ。そうして、家と家族を捨てて不在になっている(つまり舞台には登場しない)父親もまた、実はウィリアムズの風土の匂いを舞台上に芬々とさせているのであって、その影の中にいるトムもまた、本当は木場勝巳のようなスマートな存在感ではいけないのではあるまいか。

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随談第89回 観劇偶談(42)

日本伝統芸能振興会が主催し舞台創造研究所がプロデュースする「歌舞伎フォーラム」を見に行ったら、それが3時すぎに終わった後に、こちらは舞台創造研究所が主催する「江戸博こども体験歌舞伎」の公演があるというので、予定を変更してそちらも見ることにした。

歌舞伎フォーラムは既に19回目で馴染みの人も多いと思うが、今回は『二人袴』(珍しいといえば珍しい部類ではある)に『源氏店』という、『松王下屋敷』だの『老後の政岡』だのという珍品を時として見せてくれるこの公演としては、ややおとなしやかな演目である。このフォーラムでは座頭格のようにも見える中村又之助が、今度も芯の二役をつとめる。この人のいいのはなによりもセリフがしっかりしていることで、本領は時代物役者ではないかと思うが、与三郎のような役にもそれは生きていた。『二人袴』を見ても、踊りも踊れる。『演芸画報』のグラビアなどを見ていると、若いころの初代吉右衛門に風貌が似ているような気がする。

彼等のような若い人たちが演じると、たとえばお富などにしても、ちゃんと自我があって自己主張をしているように見える。神妙に教わった型を演じているのだが、一方にそう感じさせるのは、芸が若いとは言えても未熟だからとは言うべきでない。

こども体験歌舞伎の方は、一昨年だかに一度見たことがあるが、チラシによると「子供達に本物の歌舞伎公演に参加していただき、世界に日本文化を伝える実演者になってもらいたいと考え」とある。各地区の教育委員会を通じて参加者を募集したところ、100人のところへ180人の応募があったという。それも、親ではなく、子供たち自身の希望による申込みであるとのこと。

事前に楽屋を見せてもらったが、母親たちが学校の行事に参加・協力するときのように、楽しそうに手伝っている。顔をしてもらい、襦袢姿や浴衣姿のこどもたちの顔を見ると、いかにも(蚊取り線香のCMめくが)ニッポンのこどもという感じがするから不思議だ。つまり、歌舞伎のメイクがびっくりするほど自然で、よく似合うのだ。

実技の指導は、総括は大谷桂三が受け持っているようだが、実際面では舞踊の関係者がしているとのことだった。演目は『白浪五人男』の勢ぞろいに常磐津の『乗合舟恵方万歳』、それに『曽我物語』という書き下ろし新作の三本立て。予定外だったので、時間の都合で残念ながら『曽我物語』は失礼させてもらったが、「曽我物」をこどもたちに演じさせるというところにも、配慮が察しられる。

『五人男』の勢ぞろいも、それぞれ仁に合った「役者」が選ばれていて、幼いながらにちゃんとした「五人男」になっている。セリフの緩急もきちんと教えていることがよくわかる。プロの役者だととかく自分の癖で言ってしまいがちなところも、幼くとも教わったとおりに言うので、ことばの綾や意味がかえってよく判るのも面白い。

この試みが今後どういう風に定着し、実を生らせることになるのかはまだわからないが、世に知らしめる一助にもという意味合いも含めて、ここに書いておこう。

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随談第88回 上村以和於映画噺(その1)

また映画噺を再開しよう。本当は通算した回数を書いた方がいいのだが、この間の『富士の夜襲』のように日記や観劇偶談の中に書いたものもあるから、ちょいと面倒でもあるので、回数はその時々のひとまとまりの目印ぐらいに思ってください。

いま評判の『ALWAYS 三丁目の夕日』を見た。賛否あるとのことだが、結論風にいえば、まあ上手に泣かせてもらいました。もちろん、当時を実際に知らない世代のひとたちの作ったことだから、有形無形、ひっかかるところをいろいろ言い立てればアラはでてくるに違いない。東京タワーが建設中の昭和33年の春から年末までという設定は、時代のシンボリックな表現として結構だろう。

この前小津安二郎の『お茶漬の味』のことを長々書いたが、あれが昭和27年、サンフランシスコ講和条約発効の年である。それから六年、さらに六年後が東京オリンピックという寸法だ。時代を捉えるスタンスとしても悪くない。後世の目が、まして当時を実体験していない目が、近過去を見るとき、ある種の紋切り型というか、作られた通年に沿うことになるのはある程度はやむをえない。

テレビが来た。隣近所みんなが集まって見る番組が力道山のプロレスというのは、そうだその通りだったと思う人もあれば、嘘ではないがあまりにも典型的すぎると思う者もあるのは当然のことだろう。力道山が最も鮮烈なショックを日本人に与えたのは、シャープ兄弟を連れてきて日本人がはじめてプロレスというものを知った昭和29年の早春であり、プロレスというものにあるイメージを決定づけたのは昭和30年暮の木村政彦との一戦である。テレビの普及に一役買ったのがプロレスと大相撲中継、決定的だったのが皇太子ご成婚というのが、よく言われたことだが、その皇太子ご成婚は翌34年の春である。

少年二人が都電に乗って高円寺まで尋ねてゆくというのは、なるほどそうだったと思わせて巧い。青梅街道をチンチン電車が走っていたのだ。東京タワーが間近に見える場所、という場面設定は、芝から三田、赤羽橋あたりだろう。表通りから一つ入ればああいう街並みがあってもおかしくない。(少々人通りが多すぎるきらいはあるが。)

いかにもそれらしいのが、薬師丸ひろ子の女房役で、あの所帯じみた感じが時代の距離感をよくとらえている。昭和33年といえば、戦前の残滓をかなりまだ引きずりつつも、既に確実に「戦後」なのであり、それはそのまま現代に直結し、流れ込んでもいる。決してそれほどの大時代ではないのだ。あの設定の子供たちから見て、またあのぐらいの子供の母親としての年齢から見て、あれはいかにも昭和33年の「おかあさん」である。

最後にあの少女を上野駅まで送っていった一家がオート三輪で汽車と併行に土手の上を走るのは、コーダを飾る泣かせ処だが、少々のご都合主義には目をつぶるとしても、あれは北千住あたりの荒川土手と考える他はなく、芝や三田界隈へ帰る途中とするには無理がある。芝居の嘘はもちろんいいのだが、隠れもない東京の地理関係だけに気になる向きも少なくないだろう。やはり、昭和33年はもう時代劇なのだろうか。そう考えれば、つまりこれは現代の「世話狂言」なのである。

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