随談第64回 観劇偶談(その25)

新国立劇場でブレヒトの『母・肝っ玉とその子供たち』を見ながら思いついた閑話三題。ひとつは大竹しのぶの絶叫につぐ絶叫である。20分の幕間をはさんで3時間、絶叫しつつ喋り絶叫しつつ歌うというのは、そのエネルギーとその持続力には感心するが、ひどく疲れる。それがブレヒトだといってしまえばそれまでだが、テンションの高さがそのまま単調に通じてしまうところに一考の余地がある。世評高く、いや世評だけでなく大きな賞まで貰ったのだから、専門家も良しと見た、いや聞いたわけだが、去年の『喪服の似合うエレクトラ』のときにも同じことを思ったものだった。

両隣の席の紳士がふたりながらにしばしば船を漕いでいたかに思えるのは、高声の絶叫が子守唄に転じたか? そうだとすれば、「急」ばかりで「緩」のない絶叫は、なまじテンションが高いだけに単調に通じるという私の感想と符合するのかもしれない。(じつは私も何度かうつらとした。)いかに時速150キロの快速球でも、そればかり投げ続けたのでは打ち込まれるのが道理というものだ。尤も『エレクトラ』もそうだったところを見ると、もしかしたら、これは大竹しのぶよりも演出の栗山民也の好みなのかもしれない。

十月の国立劇場の『鳥羽恋塚』ではめまぐるしい「実ハ」「実ハ」の連続が筋の展開を追う努力を断念させて睡魔の虜になったひとを多く見かけたが(実はあの折も私も何度かうつらとした)、今度はおなじテンションの持続がかどの緊張を強いたために、おなじく睡魔魅入られたのだと見える。

大竹しのぶのために弁護しておくと、セリフ自体はじつに明晰なのである。あれだけ明晰なせりふを3時間喋り続けるというのは、たいしたことといわねばならない。声も本来なかなかチャーミングな声なのだ。

もうひとつは、カーテンコールでの大竹しのぶのお辞儀である。もっとも、こちらの方はいいの悪いのという話ではない。見た日には三度繰り返したが、ペコリという感じのお辞儀が大竹しのぶ論でもするときのネタになりはしないかと思って興味深かったのである。

一度目は役の興奮そのままでペコリとやったように見えた。二度目は、すこしくつろぎが見えてきたので、アヤをつけるかなと思ったら、まったく同じペコリだったので、おやおやと思った。三度目は、ペコリの前に、役の上ではなく大竹しのぶの顔になってにっこりしたので、こんどは女優大竹自身に戻って洗練されたお辞儀を見せるかと思ったら、やはり前と同じペコリだったので、ふーんと思ったという、ただそれだけのおハナシなわけだが、ブレヒト劇をマジメに研究している人などにはアンコールのお辞儀の仕方などどうでもよろしい話だろうが、私などには、そういうところがなかなか興味深いのである。

第三は、こんどは大竹ではなく、従軍牧師をやった役者(山崎一という、この人、なかなか好演だったと思う)の後頭部である。絶壁頭の具合が坊さんらしくてなかなか結構だった。『十六夜清心』などでも、清心の役者が坊主らしくないと、芸なわるくなくとも妙にきになるもので、その点でもやはり十一代目團十郎と勘弥の絶壁頭が一番坊さんらしかった。山崎一を見ながら、この人、清心をさせるといいかな、と思ったりした。

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随談第63回 野球・相撲噺(その6)

城島のメジャー入りが正式に決まったらしい。城島はまあいいとして、このほかにも、そういっては何だが、え、この人が、と思うようなメジャー希望の選手たちが大勢いるようだ。やれやれ、と正直なところ思う。

前にも書いたが、メジャー入りした選手の中で私が一番偉いと思うのは野茂である。当時まだメジャーに行くすべのなかった野茂がかなり強引にメジャーに行ったのは、これも前に書いたが吉田松陰がペリーの黒船に密航しようとして夜陰に紛れて小舟で乗りつけたようなものだ。蛮行には違いないが勇気がなければできることではない。そこには、冷静な第三者の批判を超えうるだけのものがある。

野茂は、インテリの松蔭よりもむしろジョン万次郎の方に似たところが多いが、ともかく、こういう大袈裟なたとえをしたくなるだけの気概が感じられる。ともあれ野茂以降にメジャーに行った選手たちは、野茂の爪の垢を煎じて飲むべきである。

やはり、松井以後だろう。あの慎重居士の松井が行ったのが、雪崩現象のきっかけと私は見ている。松井はともかくもあれだけの選手だから、まあ別として、そろそろ「洋行帰り」にもいろいろあらあな、という事態がはじまるに違いない。パンドラの箱の蓋が開いてしまった以上、行くなといったって行く者は行くだろう。むかし「東京へ行こうよ東京へ、東京へ行けば何とかなるさ」という歌がちょい流行って物議をかもしたことがあったが、(しかし考えて見れば『桜の園』の幕切れの有名なセリフとよく似ているね)、とにかく、行くなら大活躍してもらいたい。何のために行ったのだ、というような例が、すでにもう出始めているのでなければ幸いだ。もっとも、玉も石も行ったり来たりするようになって国際化も始めて空気のようなものになるのだといえば、そうかもしれないが。

柔道はすでに明治時代から普及活動を始めていて(石黒敬七などというディレッタントの達人みたいな柔道家あがりのオモロイ文化人がいたっけ)、その結果が現在の姿だが、相撲は対照的にこちらから売り込みはしないで(常陸山という明治の大横綱が世界漫遊をやってアメリカの大統領に会ったりしている筈だが、売り込み活動はしなかったのかしらん)入門は許すというやり方をしていまの姿になった。柔道は柔道でいいが、相撲の取ったやり方も国際化のひとつの方法だろう。つまりアメリカのメジャーリーグと同じ態度である。

アメリカ野球も昔はホワイトだけしか認めないで、ニグロリーグというのが別にあったらしいが、第二次大戦後に黒人も加入を認めてから、年を経ていまの形に落ち着いたのだ。大相撲は、まだ観客の方が馴れていないから、今日の朝青龍の表彰式も途中からばたばた帰りだす客がかなり目立ったが(魁皇を応援する「おらが村さ」意識も一面としては大切なのだが、魁皇だけ、というのはいかにも田舎臭い)、蒙古襲来があってはじめて神風も吹くのであって、彼らがいなかったら随分と低いレベルでやっていることになるのだ、ということを思うべきなのだ。つまり朝青龍などは、大相撲のレベルを下がらないように引き上げてくれている恩人とも言えるのだ。琴欧州も、気はやさしくて力持ちというハンサムぶりがいかにもお相撲さんらしくて、なかなかいいね。

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随談第62回 野球・相撲噺(その5)

前回北葉山のうっちゃりの話をしたが、うっちゃりではもう一つ忘れがたいうっちゃりがある。栃錦が関脇で初優勝した昭和27年秋場所というのは、この場所から四本柱というものがなくなって、現在のように天井から屋根を吊るし、白虎・青龍・玄武・朱雀の四色の房を下げるようになったという場所だった。(そういえば両国の国技館を作ったのは明治時代だし、相撲界というのは機械力を使うことには早くから積極的なところがある。写真判定を早々と取り入れたのにしても。)

さてこの場所、栃錦は鏡里に負けただけの14勝1敗で初優勝して大関に昇進したのだが、その中日8日目と14日目が白眉だった。この日の相手は横綱東富士で、怒涛の寄り身という異名がついていた東富士の立合い一気の寄りに土俵際につまった栃錦がうっちゃって同体で落ちた。軍配は東富士。だが出羽の海検査長(という制度が当時はあって理事が交代でつとめることになっていた)が自ら物言いを付けて取り直し。また同じような展開になって今度はさっきと反対側にうっちゃって、こんどは文句なく栃錦の勝ちとなった。横綱を右と左にうっちゃり分けたところが、さすがは名人栃錦というわけだ。

14日目の方は、今度は大関の吉葉山が相手で、前夜高熱を発した栃錦が鮮やかな二枚蹴りで切って落としたのだから、こっちの方がいっそう派手で(吉葉山は四十貫、栃錦は二十五貫である)、そのころ西巣鴨に越して間もなかった小学生の私は、木造二階建てで寄棟作りの屋根がついていた当時の池袋の西武デパートの前の新聞売り場で、親に頼んで、栃錦の二枚蹴りに吉葉山がもんどり打って崩れ落ちる写真が一面を飾っている日刊スポーツを買ってもらった。(だがなんとしたことか、この新聞はいま手元に残っていない。)

栃錦はそれまで、技能賞は毎場所指定席のように取って技能派の名はほしいままにしていたが、優勝だの大関だのとは縁のない存在だと思われていたのだった。今場所、朝青龍が入幕以後の決まり手の種類が栃錦の記録に迫っているという記事で、栃錦が40手だったということを知った。「たすき反り」という珍しい手で6尺9寸5分という長身で有名だった不動岩という力士に勝った写真が、当時よくグラビアに載っていたが、「反り技」というものをとんと見かけなくなって久しい。二枚蹴りにしても、めったに見かけない。

基本的に四つに組んで揉み合うということが最近の相撲に少なくなったことが原因だろうが、これは決り手ではないが、「手四つ」といって、突き合いながら有利な組み手に組もうとして、互いに手と手を組み合って睨み合う形になるのも、見なくなった。前に琴ケ浜の内掛けのことを書いたときにも言ったが、相手に廻しを与えまいと腰を振ったり、ということも見なくなった。(「押し」こそ相撲の基本とはいえ、押し合っていてバッタリ手を突くというのが多すぎる。ああいう相撲ばかり見せられては人気がなくなるのも無理もないか、という気もしてくる。)

琴ケ浜に限らず、羽島山という「櫓投げ」の名手だとか、もろ差しになる名人芸だけでも名物になった信夫山や鶴ヶ峰とか、地位は関脇どまりでも名人上手が、寛永御前試合みたいにぞろぞろ出てきた往時の大相撲こそ、まさしくプロフェッショナルの世界だった。

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随談第61回 野球・相撲噺(その4)

九州場所が始まったので連日見られるかぎりは見ているが(それにつけてもNHKが夜にダイジェストを放送するようになったのは、NHKとしては近頃最大のヒットである。ただし週末に放送時間が変るのはある程度は仕方がないが、極端に遅い時間になるのはよろしくない。この手の番組は毎日できるだけ一定の時間にすべきである)、それにしても入りの悪さは目を疑う惨状である。これまでも、テレビカメラはなるべく空席が目立たないように撮っていたようだが、今場所はもうどんな撮り方をしてもごっそり席があいているのが映ってしまう。そんなに、いま相撲はつまらないだろうか?

前にも書いたように、私は近年の朝青龍の活躍によって一時失いかけていた大相撲への興味を回復した人間である。そういう目から見ると、いまの相撲をつまらないと思う人の考えがもうひとつよくわからない。少なくとも、朝青龍が強すぎるからつまらないというのに対しては、何を見ているのだと言いたくなる。それをいうなら、朝青龍ぐらいしか見るに値するものがない、と嘯く方がまだしもいい。外人力士が勝つのがいやなら、そもそも高見山を入門させた時点で相撲を見るのをやめるべきだったのだ。

ところで今日の中日を見ていたら、私がひそかに贔屓にしている安美錦が人気の高見盛をきれいに打っ棄って勝ったのが見事だった。あとで「大逆手」という最近作られた新しい決り手に変更になったが、要するに「うっちゃり」である。安美錦は風情も相撲振りも正統的な技能派らしい面影があって、以前から目をつけていたのだが、あれでもうひとつ激しさが前に出るようになれば、迫力が増し、誰の目にも立つようになり、人気も出る筈だ。先場所、朝青龍を足癖で破った一番など、安美錦の真面目を見せるものだったと思う。

打っ棄りという技は、追いつめられての捨て身の技だから、それ自体はほめられることではない。しかしこういう決まり手がいまの相撲に稀にしか出なくなったのは、取り口が淡白になり、攻防・応酬や土俵際の粘りをみせる相撲が極端に少なくなったからで、そういう意味では、たしかにこのごろの相撲はつまらなくなった。

打っ棄りというと思い出すのは、柏鵬時代に大関の一角を張りつづけた北葉山で、右前褌を鷲づかみにして一気に突進する柏戸の猛攻を土俵を四分の三周ぐらい伝いに伝って遂に打っ棄ったり、大鵬に低く喰いついて、大鵬も充分承知しながら、それでも見事に打っ棄ってしまった一番とか、横綱になる器量ではなくとも、大関としては成績だけでなく、存在感のある好力士だった。(柏鵬時代というのは、柏鵬のほかに、佐田の山、豊山、栃の海、栃光、北葉山と、大関以上だけでも揃っていたのだから、層の厚さからいえば一番だったろう。栃若時代は、それに対し名関脇の時代だった。)

中日にはまた、久しぶりに水入りの一番があったが、両力士が片やに下りて水をつけている間、行司が端然と土俵に残った足型を見つめ、組み手をてきぱきと指図して相撲を再開させる、昔の行司たちの風格がなつかしく思いだされた。今回は行司力士とも不慣れのように見受けられた。反対側の組み手を確認せずに分かれさせてしまったし、行司が足の位置を決めているときに隆の若がもそもそ足を動かしたのもよろしくない。

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随談第60回 観劇偶談(その24)

今年は吉祥寺へ行く回数が多い。先月に続いて前進座劇場で『五重塔』をやっている。初演以来今年がちょうど40年で、配役も一新した。四月の『玄朴と長英』、五月国立劇場の『佐倉義民伝』、先月の『髪結新三』、今月の『五重塔』と、どれもの嵐圭史が主役でなければ復活場面での芯の役をつとめている。来年五月の国立劇場公演では『謎帯一寸徳兵衛』で大島団七をやるらしいから、これは新体制のひとつの路線なのだろう。

当然といえば当然、遅かったといえば遅かった。大歌舞伎のように群雄が割拠している状態が続いていれば、芯の役を勤める機会も幾人かにめぐってくるが、単独の劇団の中だとそこらがちょっとむずかしい。それはともかく、高野長英、佐倉宗吾、弥太五郎源七、のっそり十兵衛とことし圭史が演じた役を見ると、どの役にも共通するのは、頑なに身を鎧って、利巧に振舞うことを敢えて拒否する類の人物だということである。

信念に生きるというと、弥太五郎源七が信念の人かと言われればちょっと困るが、器用に振舞えばすむところをあえてそうしない一途さのようなものを持っているという意味でなら、他の偉人たちと一緒にしても構うまい。共通した性格を持っていながら、しかし別のキャラクターの人物を造形するのだから、これはかえってむずかしい。圭史で感心するのは、ここに挙げたどの役も類型に陥ることなくそれぞれの人物になっていることである。

『五重塔』のような芝居をみてもうひとつ思うのは、こういう奇を衒わない舞台づくりというものが、いまではかえって貴重なのではないかということである。もちろん1足す1が2という芝居ではどうしようもないが、奇を衒わないといっても津上忠の脚本は、露伴の小説という別乾坤を舞台化するという作業や手続きとしては、練達の業を見せてはいる。しかしそういう背景的な知識をひとまず脇において舞台の進行を追っている限り、難解なところや持った回ったところ、独りよがりのところはなにひとつない。つまり観客はごく素直に舞台を見ていさえすればいいのである。

同じようなことは、九月に新派の『京舞』を見たときにも感じたことだった。つまり誰が見ても、ああいいお芝居だった、といいながら帰り道につくことのできる芝居なのである。

「お芝居」といま言った。その「お芝居」を嫌うところから、いろいろ難しいことを舞台の上ではじめることになった。もちろん、それはそれで意味もいわれもあったことには違いない。しかし、そういう「演劇」作りがそれはそれで長い年月続いているうちに、それが常態と化してしまい、ふと気がついてみると、『京舞』や『五重塔』のような「お芝居」が素直に見る者の心に響いてくる新鮮さに、改めて心づいたということなのかもしれない。

山の彼方に探しに行った「幸い」は実は足元にあった。そういえば、春を探して歩き回った挙句、気がつくと春はすぐ身近にあった、という漢詩もあったっけ。

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随談第59回 野球・相撲噺(その3)

児雷也三すくみ見立てはこのぐらいにしておこうか。しかし児雷也ならぬミキタニ氏は、どうせ金にものを言わせるのなら、TBSの株を買う万分の一の金を、有力選手獲得のために回すぐらいのことはすべきではなかろうか。いかに高級といったって、株を買い占めるのに比べたらなにほどの額でもあるまい。

それにしても巨人の江藤など、いつまでも巨人にしがみついているのには何か事情でもあるのだろうか。節目の記録がかかっていたにも関わらず今年はついに本塁打ゼロだった。理由は、代打要因にしか使ってもらえなかったから、それにつきるだろう。(いちど大飛球を放ったらドームの天井にぶつかって外野フライになってしまったのがあったのは知っているが。)同じ広島の主力打者でも、阪神に行った金本の活躍ぶりと比べたら、おなじFAをつかって移籍するのでも、移籍先の選択にどれだけ頭を働かせるかが天地の違いを呼ぶ何よりの例ではあるまいか。清原はやっと多少目が覚めたらしいが、江藤などたとえば楽天に行っていたらホームラン記録などとっくに更新していただろうに。

そもそも昔から、他チームの有力選手が巨人に移籍してうまくいった例といったら誰がいるだろう? 別所や青田の昔は別としても、巨人に移ってからも「結構やった」者はいても、移ってから「よくなった」例などあるだろうか。むしろ「だんだんぱっとしなくなる」というケースが一番多いのではあるまいか。水原監督時代の南村とか平井とか楠とか樋笠などがうまくいった例として思い浮かぶが、こんな大昔の例を持ち出すのは、現代の政界の批判をするのに大化の改新の話をもちだすようなものだろうし、彼らだって「結構やった」の部類に入れた方がいい程度かもしれない。

しかし余計なお節介はこのくらいにしよう。それよりも、アジア選手権でロッテが優勝したニュースの方が、プロ野球百年の計のためにはずっと意味深いニュースだ。なによりいいのは、ほとんど手抜きをせずにやって堂々と勝ったことである。ちょっとメンバーを落とせば中国だって侮れないことが判ったのもいい経験をしたと思う。トリプルプレイというなかば偶然的な要素の多い事態がなかったら、もっと苦戦をして、あわやという事態にだってなっていなかったとは限るまい。(なにしろ中国の投手相手に四安打しか打てなかったのだ。)

いままでのオリンピックなどを見ていても、メジャーリーグにはあれほどあこがれるくせに、それ以外の外国チームというと、どうせ勝って当り前、といったムードに、当の選手・コーチなどの関係者ばかりか、一般ファンとりわけ通であればあるほど感染してしまうのが通例だが、あれほど日本人の島国根性のあらわれは無いと思う。そもそもオリンピックで日本は金メダルを取ったことって何回あったっけ?

いわれのない劣等感といわれのない優越感のブレンド。いわれのない誇大妄想に酔って大陸に侵攻しアメリカと戦争を始めた昔の軍部と、精神構造がどれだけ違っているだろうか。アジアリーグや世界選手権を確立して、一生懸命戦って堂々と勝つようにならない限り、日本の野球のジリ貧状態は続くだろう。

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随談第58回 野球・相撲噺(その2)

前回の続きだが、その前に尾上松緑丈にお詫びをしておかなければならない。前回で前名の辰之助と書いてしまったことである。どうもごめんなさい。

さてところで、例のプロ野球界お騒がせ三人男の児雷也三すくみ見立てである。私はそもそも経済学というものに対して、音痴が音楽に対するのと共通した反感と偏見を持っている人間なので、彼らがニッポン放送やTBSや阪神球団にやろうとしたこと、またはしつつあることのカラクリは、何が何だかさっぱりわからない。しかしどんなことをもくろんでいるかとか、虫の好く奴か好かない奴かとかいうことは、逆に直感的にわかる。また彼らそれぞれがやろうとしていること自体が、客観的に見て、別に悪いことであるとも思わない。むしろ、彼らをケシカランともっともらしい理屈をつけてしたり顔で批判したりしている人間の方が、少しミットモナイように思っている。しかしそれらはみな、直感的に察知しているだけに過ぎないから、あの問題については何も言う気はない。

そこで三人衆の児雷也三すくみ見立てである。松緑の大蛇丸を見ながらホリエモンを思い出したというのは、別にホリエモンが松緑に似ているという意味ではない。ただ松緑という人が、特にその演じている児雷也という役が、敵役ではあってもどこか稚気愛すべき人物に見えてくるところがあって、それは役者松緑として一得である筈である。ホリエモンが松緑ほどの好漢であるかどうかはアヤシイが、少なくとも他人からカワユイと思ってもらえるタイプであることは確かだろう。(なればこそ、ああいうカワイイ仇名がつくのである。)カワイイと他人に思ってもらえるということ自体、既に、金儲けをもくろむ人間にとって一得どころか二得でも三得でもあるわけだ。

ところで大蛇丸は、児雷也の物語の中ではいうまでもなく敵役である。何しろ『妖蛇の魔殿』では月形龍之介がやったほどの役である。月形の大蛇丸は実に精悍そのものだった。しかし大谷友右衛門の『忍術児雷也』では大蛇丸は田崎潤で、この人はギョロ目に愛嬌があって真からの敵役にはなれない、憎めないキャラクターで売った人だ。その意味では松緑の大蛇丸と一脈通じるところがある。つまり大蛇丸という役には、そういうキャラクターの役者を配してみようと思わせるところがあるのだといえる。

ホリエモンというと私が一番印象的なのは、去年の近鉄バッファローズの一件で後のカラスのミキタニにとんびに油揚げをさらわれるようにしてやられたときの、ニュースで見たワンショットである。どこだかの玄関先のようなところで、待ち構えていたとおぼしいホリエモンがやって来たミキタニに話しかけるのを、ミキタニは完全無視で行ってしまう。するとホリエモンは、「ひと言ぐらいあってもいいんじゃないですかねえ」とか何とか、報道陣に向かってぼやくのである。自分がミキタニと同じ立場に立ったら同じようにするのかもしれないが、すくなくともあのワンショットのホリエモンはじつにカワイかった。

あれでは、大蛇丸にはなれても児雷也にはなれない。意外にいざというときに主役は張れないのかもしれない。ひっくり返せば、ミキタニという人物はカワイクないタイプなわけで、さて最終的にどちらが得か、人種学的に眺めるとあの一件はなかなか興味深いのである。

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随談第57回 野球・相撲話(その1)

>映画噺が終わったらまたぞろ野球と相撲かと言われそうだが、野球はシーズンが終わっていろいろ話したいことがむずがゆくなってきたのと、来週からは九州場所が始まるからどうせなにか話題が出来るだろうから、はじめからくっつけて野球・相撲噺と題しておこう。むかし、戦時中に野球雑誌と相撲雑誌が統合になって『相撲と野球』(逆ではない)という雑誌ができたというためしもある。

この雑誌のバックナンバーが数冊、戦後もしばらく我が家に残っていて、小学生のころ、それをひっくり返しとっくり返し眺めていたのでよく覚えているのだ。なかでもよく覚えているのが、昭和十八年夏場所号で、双葉山の最後の優勝の場所の記事がメインで、まだグラビアも記事も豊富で、現在の目で見ても、チャチという感じはまったくない。「・・・と思う」と正確には続けるべきで、その後引越しをしたり、手狭なので身辺整理を繰り返しているうちに、なにかに紛れて屑屋にでも売ってしまったかして、最早手元になくなって久しいのである。澤村田之助氏がバックナンバーをいまでも全部揃えているらしいので、横綱照国が腕組をして控えに坐っている写真が表紙のその号のことを人づてに訊いてもらったところ、ちゃんと持ってますよという返事だった。

ところでその雑誌は、誌名通り相撲が主で野球が従という編集なので(そこが戦時という時代で、国技と敵性スポーツの違いの露骨な反映である)、野球に関してはグラビアもなく、記事も巻末の方に追いやられていた。シーズンはもちろんまだ半ばで、巨人の新加入のエース藤本英雄が大活躍している。藤本というのは完全試合第一号のあの中上英雄のことだが、われわれ世代には藤本といった方がピンとくる。完全試合よりも、スライダーを開発したり、投手なのに代打満塁ホームランを打ってその名も『ホームラン』という雑誌の表紙をそのときの打撃フォームが飾ったりした方が、印象が強い。巻末にあの沢村栄治の戦記が載っていて、小隊を率いてジャングルを匍匐前進しながら、樹間にいる敵に向かって手榴弾を投げて倒したというような内容だったと思う。つまり沢村は、腹這いの姿勢から手榴弾をストライクで投げたのだ。(この記事を読んだお陰で、沢村という神話伝説時代の「神」が、わずからながらもぬくもりを持った「人」として、いまも私の中にある。)

ところでいきなり昔話になってしまったが、野球の話を再開しようと思ったきっかけは、新橋演舞場でやっている『児雷也豪傑譚話』で辰之助の大蛇丸を見ているうちに、なんとなく(当世風に「なにげに」と言った方がニュアンスとしてはふさわしいかもしれない)ホリエモンを思い出したことから、いまをときめくあのプロ野球乗っ取り三人男を児雷也と大蛇丸と綱手姫になぞらえてみると面白いかなと考えたからである。

もっともこの場合、ホリエモンを大蛇丸とすると、ホリエモンをダシに使ってはかっさらってしまうミキタニの方が児雷也ということになり、蝦蟇と蛇の立場が逆になってしまう。そうして白面の児雷也の方が悪党として一枚上ということになるが、どうせ仁義なき戦いなのだから、この際善玉も悪玉も区別なしでいいことにしよう。もうひとりのお目々の丸いヒトが女形で、ナメクジの術を使う綱手姫というのはぴったりだろう。

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随談第56回 上村以和於映画噺(その7)

映画噺は前回でいったん終りと言ったが、新橋演舞場で『児雷也豪傑譚話』を見てきたら、急に映画の児雷也の話をしたくなったので、もう一回だけ続けることにする。

といっても、そういろいろ見ているわけではない。いまの雀右衛門が大谷友右衛門時代に新東宝でとった『忍術児雷也』というのと、東映で千恵蔵の自来也、月形龍之介の大蛇丸、長谷川裕見子の綱手姫という配役の『妖蛇の魔殿』(これは「ようじゃ」ではなく「ようだ」と読むのだった)というのと、このふたつが圧倒的な「名画」で、黙阿弥の歌舞伎脚本(つまり『児雷也豪傑譚話』である)は別とすれば、私の「自来也学」はこの二本の映画に拠っているようなものだ。

友右衛門主演の方は黙阿弥と同じく「児雷也」と書くが、千恵蔵主演の方は「自来也」と書いて「自ずから来たる也」という読みをダブらせている。監督は前者が萩原遼(この人はあの『笛吹童子』『紅孔雀』の監督である。しかし戦前には鳴滝組の一員だったらしい)、後者が松田定次、とばかり記憶していたが、今度の演舞場のパンフレットに轟夕起夫氏が薀蓄を傾けているのを読んで、新東宝版は加藤泰が共同監督であったということを知った。(ついでにいうと、この轟氏の文章には私としては教えられるところ多々あって感謝しているが、児雷也映画の大谷友右衛門が現在の中村雀右衛門であることを一筆つけくわえていない一点だけが腑に落ちない。)

新東宝版の大蛇丸は田崎潤で、いわゆる時代劇俳優でないところに一種奇妙な面白さがあって、今度はそちらが主役で『逆襲大蛇丸』という続編ができたが、それは見なかった。この人は当時新東宝で『明治一代女』の巳之吉をやったりしている。綱手姫は利根はる恵だと覚えているが違ったか知らん。(この人もつい最近亡くなったという記事を読んだと思う。)すくなくとも中学生だったわれわれには大人のムードのある、その分好きという感じにはなりにくいところがあったが、総じてこの世代の女優さんは、他にも幾野道子とか澤村晶子(この人は澤村藤十郎のお姉さんである。顔も藤十郎によく似ていた)とか西条鮎子とか伏見和子とか、私の映画前期のほのかな記憶の中で独特の位置を占めている。スターとしてはやや薄幸な人たちであったような印象が、そう思わせるのかもしれない。)

『妖蛇の魔殿』の方は、千恵蔵、月形という戦前派の貫禄充分の大スターが、しかも当時リアルな芸を心がけているかに見えた(その代表が有名な『血槍冨士』である)ふたりが、思い切って戦前の無声映画時代のように大時代に演じたところにミソがあった。当時読売の映画評を書いていた谷村錦一という批評家が大喜びして絶賛していたのを覚えている。長谷川裕見子の綱手姫も、髷を結わないおすべらかしの髪がよく似合うタイプなので、大時代な芝居にうまく乗ってこれも私の好みに合っていた。この三人が、妙高山・戸隠山・飯綱山と、信越国境の三名山を本拠にして戦うというのがロマンを刺激するところがあった。のちに私にしては珍しく妙高と戸隠に登ってみたりしたのも、どこかに自来也の影響が残っていたのかもしれない。 それにしても児雷也の蝦蟇と大蛇丸の蛇と綱手姫の三すくみの内、蛇と蝦蟇は判るが、蛇がナメクジが苦手というのは何か根拠があるのだろうか。

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随談第55回 上村以和於映画噺(その6)

映画噺は心ならずも随分間遠に飛び飛びになってしまったので、その「前史編」として今回で一旦ひと区切りとして、いずれまた再開したい。

さて中学時代の同級生にS君という大変な映画通がいた。例のジェイムズ・ディーンが大ブレイクした『エデンの東』が公開されたのは中学3年のときだが、それ以来S君はディーン風にポケットに手を突っ込んで肩をゆすり、ちょっとびっこを引くような歩き方をすっかり身に付けてしまった。なかなか似合ったから、それなりに格好よく、われわれも別に滑稽だとは思わなかった。S君はしかし、ディーンにかぶれるより前にすでに中学生ばなれした映画通であって、ヒッチコックについて論じたり、われわれを前に薀蓄をかたむけたりしていたから、時代劇についてぐらいしか太刀打ちできない私などはただ拝聴するばかりだった。

その頃は、多少知的な関心がある人間なら、中学生・高校生ともなるともっぱら洋画に関心を集中し、日本映画は軽んじる傾向があった。だからわれわれと同年配以上で、いまになってアラカンはよかっただの『君の名は』に夢中だったなどと利いた風なことを言うインテリ男やインテリ女には、私はいったん疑ってかかることにしている。そういうことを言うのが格好いいとされるようになったのは最近になってからのことで、そういう手合いの半数は、実は日本映画はあまり見ていなかったと思って間違いない筈である。

(しかしインテリ女性でも「話せる」人がいるのも事実で、つい先年、私より三歳年長の女性心理学者で、高田浩吉の「白鷺三味線」といったら一発で分かった人がいたので大いにソンケイした。もっとも、洋画党を標榜しながら隠れ長谷川一夫ファン、隠れ高田浩吉ファンというのはかなりいたのかもしれない。)

われわれの同級生でも、ついこの間まで千恵蔵の多羅尾伴内がどうのといっていたK君などがすっかり洋画ファンに転向し、映画に誘いに来たので一緒に『シェーン』と『真昼の決闘』の二本立てを見たりした。もちろんこういうものは見ておいてよかったのであって、K君に感謝しこそすれ、裏切りを咎めたりする気はないが、一抹の寂しさを覚えたのも事実である。(もっともK君とは三船敏郎の『宮本武蔵』三部作も一緒に見ている。八千草薫のお通が評判だったから、お目当てはそちらであったのかも知れない。)

もうこのころには錦チャン・千代チャン時代が始まっていたが、私の三歳下の妹などは、中学一年生のくせに月形龍之介にファンレターを書いて返事を貰ったことがある。月形氏も女子中学生から手紙をもらって、珍しいと思ったのだろう。「加茂川の堤も柳桜をこきまぜて」などという時候の挨拶からはじまり、「あなたはお若いのにしっかりした映画の見方をしていっらしゃる。どうぞその心をわすれないように」などと書いてあったと思う。

もちろん私にしても、やがて洋画を見るようになるのに時間はかからなかった。しかし洋画に限らず日本の現代劇より時代劇にまずかぶれたのは、現実とは違う別世界がそこにあるということが大きかったと思う。(映画噺はいったんこれでおしまい。やがてPART Ⅱ、PART Ⅲとして続けます。)

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