随談第34回 上村以和於相撲噺(その7)

前回(その6)の続きですのでそのつもりでお読みください。

男の艶ということを、相撲取りの粋ということからちょっと考えてみた。この前、元の寺尾を海老蔵と見間違えた話をしたが、思い出す限り、私が一番粋だったと思う相撲取りはやはり栃錦である。栃錦は、べつに役者と見間違うような美男ではない。(ほぼ同時代に輝昇という果敢な突っ張りで鳴らした気鋭の力士がいたが、この人は片岡千恵蔵に似ているというので女性ファンに人気があった。千恵蔵といっても、重役スターになってからのあの鰓の張った、カンロクのありすぎる千恵蔵ではなく、もう少し若い頃のだが。)

栃錦はのちには名人といわれ、本場所がまだ年に三場所だった時代に技能賞を9回取って(つまり毎場所栃錦に決まっていたも同然だった)技能派として売り出したのだが、しかしいわゆる相撲巧者にありがちなひ弱さとは無縁の相撲を取った。また栃東を引き合いに出して申し訳ないが、ああいう風に緻密に計算をし、計算通りにいかないとしょんぼりしてしまったり、星勘定を気にして萎縮してしまう「近代的知性」とは、似て非なる技能相撲だった。一言でいえば、激しい相撲を取った。

小兵だったから頭もつけた。無駄にじっとしているということがなく、激しく動き回って次々と手を繰り出し、連続して技を仕掛けた。栃錦が大関で若乃花が小結か関脇の頃に水入りの大相撲を取ったときのフィルムがあるはずだが、それを見るとふたりとも神経がびりびりするようで、実に俊敏に動き回っているのがよく分かるが、それでいて腰がよく入っている。その証拠に、二人とも、相手をしとめた一瞬、何ともいい形に極まった。

ふたりのやや後輩に琴ケ浜という内掛の名人がいて、この人はしぶとく相手の懐に入ると腰を振って上手を引かせず、苛立った相手が強引に上手を取りに来るところを、一発の内掛でしとめるので、黒豹が枝の上からじっと獲物を待っていて一瞬で倒すのを連想させた。これはやや変則なのでさすがに大関で終わってしまったが、大変な名人芸であったことは間違いない。そういうのを見ていたせいで、この頃の力士が簡単に相手にマワシをとらせるのが不思議で仕方がない。

話がややそれたが、さっきの栃若戦のフィルムに、途中栃錦の髷の元結が切れて、水が入って土俵下に下りた時、仮の元結で自分で髪を束ねるシーンが写っている。そうでなくとも激しい相撲を取るので、勝負が終わると髷ががっくりと傾く。その瞬間に男の色気がほとばしる。それなのだ。それでいて、土俵を下りると栃錦はまったく温厚な人だった。

おなじ春日野部屋に鳴門海という、オリックスから阪神で活躍した星野投手のような鶴のように細い相撲取りがいた。この人も地味だがなかなかの名人で、体重が倍以上もある横綱の鏡里に三場所連続で勝ったりした。栃錦とふたりでちゃんこ鍋をつついている写真が雑誌に載って、キャプションに新国劇の舞台の場面のよう、とあった。

栃錦は若手のころ、相手に喰い付いて離れない稽古ぶりを見に来た六代目菊五郎が「まむし」と仇名をつけたという。先代の吉右衛門も、これは出世してからだが、栃錦が贔屓だったという。つまり「菊吉」が惚れたほど、「粋」だったのである。(次回からは映画噺。)

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随談第33回 上村以和於相撲噺(その6)

しばらく間があいたが、相撲噺の締めくくりをつけておきたい。前の野球噺もそうだが、ただの思い出話を昔語りにしているつもりはないのであって、それぞれのいま現在を、暗に論じているつもりである。歌舞伎の話をちっともしないという声もあるようだが、それについても、野球や相撲の話をしながら、ひるがえって歌舞伎の話にも通じることを、話しているつもりなのだ。

今場所も朝青龍が優勝した。前にも書いたように、私は朝青龍の相撲振りに惚れて、しばらく不熱心になっていた相撲放送を見るようになったぐらいだから、その優勝は欣快事である。日本人の力士が優勝しないからつまらないという説があって、もちろん気持ちは分かるが、少し料簡が狭いと思う。外国籍の弟子を入門させるようになった以上、そういうことを言ってもはじまらないのであって、曙と貴乃花が拮抗していた頃、千秋楽の決戦で曙が優勝を浚ったとき、表彰式が始まる前に桟敷席ががら空きになってしまい、暗然とすると同時に義憤を感じたことがある。なんという根性の狭さなのだろう。

私だって、琴欧州や黒海の頭髪が金髪でなくてよかった、というようなことを思わないではないけれど、しかしかれらの態度物腰をみていると、なまじな日本人の力士より相撲取りらしさを感じることも少なくない。朝青龍などは、久しぶりに相撲取りという言葉がぴったりな相撲取りが現れたと思っている。

「おすもうさん」という親しみと敬意がこもったいい言葉がむかしからあって、魁皇などはたしかにそういうムードを持っているが、このごろは「力士さん」などという不思議な呼び方をする人もあるらしい。「おまわりさん」というのはいいけれど、「巡査さん」とか「警官さん」などといったら珍妙だろう。

このあいだ原稿書きに疲れて少しうとうとしていて、ふと相撲放送をつけると、向こう正面に坊主頭にホワイトシャツ、ネクタイをきりっと結んだいい男がアナウンサーと喋っている。一瞬、海老蔵がゲストで出ているのかと思ったが、よく見ると、元の寺尾だった。間違ったのは多少寝ぼけ眼だったせいだが、しかし、あれはよかった。男の艶があった。

栃東などのインタビュウを聞いていると、なんとアタマがよくて神経が細やかなのだろうと思う。もちろん頭がいいことも神経が細やかなのもいいことだが、この人これでは横綱になるのは大変だろうなと、正直、思ってしまう。朝青龍だって頭もいいし(あの日本語会話のうまさはどうだろう!) 神経も細かいと思うが、それがひと筋に勝負に賭ける人間の迫力になっているのに、栃東のは残念ながら、頭のよさ神経のこまやかさが勝負師とは別の種類のもののような感じがする。たしかに相撲巧者だが、同じ栃でもむかしの栃錦のような、勝負のための頭のよさ、神経の行き届いた鋭さや風情のよさは、むしろ朝青龍の方が、共通するものを覚える。タイプは違うが若乃花にしてもその点は共通していた。

要するにプロフェッショナルの魅力なのだ。常人の到底及ばない鍛え上げたものを身に備えていて、それがあるゆえに、土俵を離れた浴衣がけの姿ひとつにも粋な風情が漂う、いいオトコになるのである。(この稿、つづく)

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随談第32回 俳優偶論(その5 市川亀治郎)

またまた『十二夜』からのネタだが、それだけ若い役者たちがいきいきと働いたのだから勘弁していただこう。マライアならぬ麻阿役の亀治郎である。

儲け役にはちがいない。この役が活躍しないようでは芝居が寝入ってしまう、働いて当然、という言い方もできないわけではない。しかしこの麻阿という女のチャームは、亀治郎あってのもので、脚本の要求している以上の存在感を実感させているのは疑いない。現にこれまで、新劇でやった普通のシェイクスピア劇としての『十二夜』で、マライアという役にこれほどの魅力も存在感も覚えたことはない。

思い起こしてみれば、もうだいぶ前になるが猿之助が『小栗判官』(スーパー歌舞伎の『オグリ』ではなく、『当世流』の方である)をやったときに、亀治郎が青墓の長者の娘をじつにいきいきとした実感をもって演じたことがあった。こわいもの知らずに育った娘で、はした女に雇った女がじつは照手姫であるとは夢にも知らず権高に振舞っているうち、やがて小栗判官の心が自分ではなくはした女にやつした照手姫にあったことを知る。最後は自分が犠牲になって死ぬのだが、それを亀治郎がやると、説教節という古い昔話の自己犠牲の物語が、自ら主体性を持って、自分を生かすために死を選んだ娘のドラマのように見えた。ここは歌舞伎独特のトリックで、生首、つまり亀治郎自身が切り穴から首を出して、一瞬、カッと目を開くという演出がある。つまり犠牲になって死んでも妄執は生き続けるのだから、思いの強さがもともとある役なのだが、亀治郎だとそれがただのトリックではなく、ある種の普遍性を実感させつつ立ち上がってくる。

亀治郎十傑に入る傑作なのだがちょっと旧聞なので忘れかけていた。役どころは違うが、自己主張のある女という共通項から、今度の麻阿を通じて思い出したのである。そういうなら麻阿、いやマライアだって、演じようによっては、サー・トービーに言われるままに動いているだけの女になってしまう。もちろんそれではちっとも面白い役ではなくなる。

サー・トービーこと洞院鐘道はドタバタ役である。しかしお公家さんだから、ドタバタといっても品はよくなければいけない。洞院役の左団次はさすがに鷹揚に演じてうまいものだ。松緑のやるサー・アンドルーこと安藤英竹が思い切った現代調で演じるのと、双方とからみながらバランスを取るのが亀治郎の役目である。松緑もよくやっているが、受けては返す亀治郎の名捕手ぶりは、ちょっと見以上に苦心があるに違いない。敢闘賞を、と『演劇界』に書いたのだが、技能賞でもいいのかもしれない。

じつは今年に入ってから、私は亀治郎に失望の連続だった。正月の浅草歌舞伎で、『封印切』の忠兵衛を愛之助と、『鏡獅子』を七之助とダブルキャストでやって、予想に反してどちらも相手に名を成さしめてしまった。どちらも技巧では亀治郎の方が上手いのに、がちがちの秀才が完璧主義に凝り固まったみたいで、くすんでしまったのだ。浅草は亀治郎の圧勝と予想した私の見込みはまんまとはずれた。

だが『十二夜』という自由の利く場を与えられて、亀治郎は甦った。こうなったからには、八月の亀治郎の会を目を皿のようにして見よう。

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随談第31回 俳優偶論(その4 中村時蔵)

『十二夜』の話をもう少し続けたい。菊之助がヴァイオラ=シザーリオとセヴァスチャンをひとりで兼ねたのが、シェイクスピアの設定した趣向を歌舞伎の手法ではじめて実現して見せた好例とすれば、オリヴィアを赤姫として造形して時蔵に配したのは、シェイクスピアを歌舞伎の意匠で装って歌舞伎ならではの効果を挙げた好例といえる。

西洋の姫君を赤姫でということ自体は誰でも思いつく知恵だとしても、それを演じたのが時蔵だったのは、天の配剤というべきである。時蔵はついこの三月に八重垣姫を演じていて、そのどちらをも見ている者には、八重垣姫とオリヴィア=織笛姫と二つの役がダブルイメージとなって一層の効果をもたらすのだが、仮にそれを知らなかったとしても、時蔵の演じる赤姫姿のオリヴィアに、他には求めがたい気品とユーモアを感じ取ったに違いない。

赤姫に求められるのはまず気品だが、同時に赤姫の赤は、恋をする者の情熱の表徴でもある。一途な激しさを一方に秘めつつ、それを気品でくるんだ均衡の上に、赤姫という役柄は成立している。その均衡は、どちらかに多く傾けば表情のない人形姫になるか、あるいは逆に、姫の衣装をまとったただの女になってしまう。しかしその均衡が千にひとつの絶妙の安定を保つとき、たとえば独楽が見事な均衡を得て廻るときほとんど静止して見えるように、理想の赤姫は、激しく燃え、揺れる心の均衡の上に静止して見えるとき、はじめて生気を通わせる。若手の女形が必ずのように演じる役でありながら、しかし姫ほど、むずかしい役はない。

時蔵の八重垣姫は、「奥庭」で白く長い毛のついた諏訪法性の兜を手に、月影の前に立った姿が、気品の中に恋に殉じる者のみが持つ凄艶さをただよわせて圧巻だった。ついこの正月には三津五郎の鳴神を相手に雲の絶間姫を演じたが、気品の中にユーモアを流露させて、幾度も演じ重ねたこの役に少しの慣れも感じさせなかった。雲の絶間姫といえば、四国の金比羅にある金丸座という昔ながらの芝居小屋で時蔵のこの役を見ながら、涙がとまらなくなって困ったという不思議な体験を、私はしたことがある。『鳴神』という芝居を一度でも見たことのある人ならわかるように、この芝居には涙を流して見るようなところはなにもないのである。それにもかかわらず涙がとまらなかったのは、本当に完全なものを見たときの感動がそうさせたのだと、考えるほかはない。

時蔵のオリヴィア姫は、その八重垣姫と同じ姿で登場し、ヴァイオラの変装したシザーリオに恋を抱き、シザーリオのもたらすオーシーノ公爵の求愛をはねつける。あんなにやさしい、可憐な姫が、あんなにもつれなく、つめたい女でもある。それは人間誰でもが持つ、矛盾であり、盾の両面なのだが、八重垣姫のような姿をした時蔵のオリヴィア姫を見ていると、そんなありふれた心の有り様ではなく、人の心の不可思議さ、不可思議さ故のチャームとなって訴えかけてくる。人間って何なのだろう。そんな、深刻に考え込んだらむずかしい問題と、われわれは、軽くこころを遊ばせながら戯れる。それこそは、喜劇『十二夜』の真骨頂でなくてなんだろう。

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随談第30回 観劇偶談(その11)

松竹座を見てきた。勘三郎襲名の興行を真夏の大阪でやるというのは、大阪という街にも、勘三郎という役者にも、どちらにもふさわしい。まだ梅雨が明けきらない、真夏というには多少気が早いが、しかし二日滞在した内の一日は、昼頃から晴れ上がって抜けるような夏空だった。松竹座のキャパ、ひと月という興行日数のせいもあり、歌舞伎座の三ヵ月にもまして切符の手に入らない連日であるらしい。

勘三郎にとっても、大阪がいまある自分の原点なのだという。80年代から90年代にかけて九年間連続して中座に出た、そこで自分を見に来てくれるお客をつかんだ。それは自信にも自負にもなっているし、翻って大阪の地に歌舞伎のお客を開拓し、甦らせたことでもある。昭和63年の『四谷怪談』が転機だったという。それまでは、舞台から二階席を見上げるとうっすらとしか客がいなかった、と勘三郎は言う。

その大阪の九年間というものがあって、歌舞伎座八月の納涼歌舞伎があり、コクーン歌舞伎があり、平成中村座があり、ニューヨーク公演があるのだ、というのが勘三郎の認識である。なるほど、そうなのだろうな、と話を聞きながら得心の行く思いがした。自分の力で観客をつかんだのだ、という何ものも否定しがたい実感。それは、芸というものが、結局のところ、演じる者と見る者との関係の上にしか成り立たないのだということを、自分の身体で体得した者の実感であって、その話を聞いて納得するのも、語る勘三郎自身の言葉にそれを実感するからに他ならない。勘三郎の活動ぶりや舞台成果に対してさまざまな見解が生じるのは当然のことだが、この実感を抜きにして勘三郎の存在の有り様はないのである。ということは、そこを見ないで抽象論をいっても意味がないのだ、ということでもある。

勘三郎は『研辰の討たれ』と『沼津』の平作を演じ、更に『宮島のだんまり』の大江広元を演じ、『藤娘』を踊る。『研辰』は大阪の客の方がノリがいいと勘三郎はいう。町人の町としての実感があるからだ、というのは確かかもしれない。少なくとも、舞台が五月の歌舞伎座にもまして粒が立っているのは事実だ。「勘九郎」がこんど変ったことをやるそうだぞ、という初演の時のような物珍しげな感じはもうない。もちろん勘三郎の意欲はだれしも知っているが、もはやそれは「そこにあるもの」として受け容れられている、ということだろう。

成果としては、やはり『沼津』はいい。仁左衛門の十兵衛との釣り合いが、四年前の歌舞伎座の時に比べてはるかにしっくりしている。仁左衛門も、前よりも一段と和事味を出しているのは、こなれてきたからでもあるし、大阪で演じているという意識が、殊更にではなくとも作用しているのかも知れない。『藤娘』は初役である。『道成寺』もそうだったが、いかにも町の娘である。三津五郎が曽祖父七代目以来の『源太』を踊るのと二段返しになっているのが、一層好対照で、うまい出し方だ。

他の人たちでは、『対面』で橋之助の工藤がじつに立派である。染五郎の五郎と勘太郎の十郎も好一対だが、それをぴたりと抑えている重みの具合がいい。

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随談第29回 俳優偶論(その3 尾上菊之助)

『十二夜』を初日に見た。劇評は例によって他に書くから、ここでは菊之助について書くことにしよう。実を言うと、菊之助は私にとっては論じにくい役者に属する。これは好き嫌いとか興味のあるなしの問題ではない。好きな役者が論じいいとは限らない。菊之助の場合、事はこの人の備えているオーソドクシイの問題と関わっている。だが『十二夜』の菊之助を見て、ひとつの手がかりを見つけたような気がする。

『十二夜』で菊之助は、ヴァイオラとヴァイオラが変装するシザーリオと、ヴァイオラの双子の兄のセバスチャンの二人三役を演じる。もちろん今井豊茂の脚本は世界を室町辺りに定め、役名も日本風にしてあるのだが、内容は小田島雄志訳を通じてシェイクスピアに忠実に従っているから、いまここでは原作の名前による方がかえって事が見えやすい。

ところで菊之助の演じるこの三つの役は、まったく見分けがつかない同じ顔をしているというのが、シェイクスピアの書いた設定である。このことは極めて重要な筈なのだが、新劇俳優による通常の上演ではいとも簡単に無視され、放棄されてしまう。理由は簡単で、同じ顔をした、それも男優と女優が二人揃うなどということがありえよう筈がないからだ。最終幕でヴァイオラとセヴァスチャンを同じ舞台に登場させないわけに行かない以上、新劇という演劇の持っている技術にはそれを可能にする方法がないのだから無理もない。しかし問題は、だからといってシェイクスピアがこの劇に施した設定をそうあっさり無視してしまっていいのか、ということになる。

だが今度の『十二夜』では、その不可能が菊之助によっていとも軽々と可能になった。もちろん歌舞伎には早替りとか吹替えといった技法があるからで、それを使えば菊之助でなくとも出来るわけだが、しかし私に言わせれば、菊之助以上にそれを効果的にやれる者はないだろうということである。女形から出て立役にも守備範囲を広げた芸の幅、若さと美貌。もちろんそれもある。が、それだけに留まるものではないところに、先に言った菊之助のオーソドクシイの非凡さがあるのだと思う。

先に私は、菊之助の演じた二人三役といったが、事実、筋の上では二人であるヴァイオラとセバスチャンは、ヴァイオラがシザーリオになることによって、シザーリオはオリヴィアに愛され、ヴァイオラはオーシーノを愛することになる。ヴァイオラとシザーリオは同一人であって同一人ではない。その、表面上の取り違えという笑劇仕立てが、個人主義という近代思想の申し子の根底を軽やかに洗い流す。人間とはいったい何なのだ、と重く考え込むのではなく、軽く直覚しながら、われわれは舞台の上の夢に酔い、ドタバタのファルスに笑う。『十二夜』とはそういう芝居である。そうした軽味に、菊之助の芸と身体のもつ感覚とがしなやかに反りを合わせている。

将来は知らず、いまの菊之助はおそらく、いわゆるシリアスな役はあまり向かないかもしれない。だがそのことは、歌舞伎俳優として必ずしも弱点ではない。個を通じた深刻よりも、典型を通じた軽みの方が、より深くより普遍として人間の本質を射抜くことがあるのが歌舞伎である。シェイクスピアもそうだろう。菊之助のオーソドクシイとはそういう種類のものである。

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PR 歌舞伎学会「現行レパートリイを考える会」主催オープン研究会

講演

(1)「黙阿弥『霜夜鐘十字辻筮』の上演台本作成をめぐって」

上村以和於

(2)「散切り物を再評価する」(仮題)

神山彰

7月17日(日)1時~4時

明治大学駿河台校舎アカデミイ・コモン10階

費用 資料代のみ

予約不要

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随談第28回 上村以和於相撲噺(その5)

前回のおわりに書いたように、中学生の頃に見た都内の巡業の話をしよう。

その頃私は、住所でいうと豊島区西巣鴨、国鉄の大塚と池袋の中間あたりに住んでいた。その辺り一帯、空襲で焼け野が原になったとおぼしく、ちょっと穴を掘るといろいろな瓦礫がでてきたものだ。大塚駅前はまだ空襲の痛手から立ち直りきれずにいる感じで、昔は池袋よりこっちの方が盛っていたのに、というような話もちらりと聞いた。

その大塚駅前の小さな広場に、二所ノ関一門の巡業がきたのは、中学一年の年の秋の学期がはじまってまもなくだった。当時の二所一門というのは、NHKの相撲解説で有名になった初代玉ノ海や神風が廃業したり、大ノ海が独立して杉並に花籠部屋を起こしたり、結束の悪さがとかくいわれていたが、そのときは揃ってやってきた。のちに佐渡ケ嶽部屋を起こす先代の琴錦、のちに大関になった内掛の名人の琴ケ浜、ガダルカナル帰還兵の荒法師二代目玉の海、それに当時小結だった初代若乃花という曲者ぞろい、多士済々ではあったが、前年に佐賀ノ花が引退して以来大関以上がいない。若乃花はまだ目玉商品というほどではない。

夜相撲だった。夕方からはじまって、しょっきりだの、学生相撲の選手と幕下力士の五人抜きだのをやっている内にとっぷりと暮れて、いい雰囲気になる。五人抜きははじめプロのほうが旗色が悪くて、あと一人というところまで追い詰められてから、さーっと勝ってしまった。もしかするとアマチュア相撲へのサービスだったのもかもしれない。

やがて本割りが始まる。控えに座った若乃花が、うしろを振り返って子供の見物に何か笑いながら言っている。そのすぐそばにいた同級生に後できくと、若乃花は、オイ俺にもそのキャラメルくれよ、といって、わたすとちゃんと舐めてくれたそうだ。若乃花は夜間の照明(いったって裸電球だが)に映えて、肌の色がとてもきれいだった。

出羽の海一門がやって来たのは翌年の十月、秋場所が終わって間もなくだった。夏・秋と連覇した栃錦が横綱に昇進して、つい二、三日前に奉納の土俵入りを行なったばかり、つまりほやほやの新横綱を私たちは見たことになる。こんどは、大塚駅の反対側にあった、われわれのとは別の中学校の校庭が舞台だった。このときは、午後の授業をつぶして学校中で見に行った。

出羽一門は二所一門と違って大所帯、人材も豊富である。横綱が千代の山と栃錦とふたりもいる。栃錦は春日野部屋だが、出羽一門として行動を共にするのだ。通りすがりに窓を覗くと出羽錦が座っていた。二本差しの名人なのでリャンコの信夫とか、柔らか味のある色白で、腰を振って歩く癖からモンロウ・ウォークの信夫と仇名がある小野川部屋の信夫山が、校庭の片隅に棒切れで円を描いて、取り的たちに山稽古をさせている。口を開けて相撲をとるな、歯を食いしばれ、と言っている。(その頃は、本場所がはじまると、誰いうともなく校庭に円を描いて相撲を取ったものだ。)山のように大きいのは大起である。

音に聞く夢の英雄たちが自分たちの住む街や校庭にやってくる。その親近感、その臨場感。こういう感覚は、いまの大相撲にあるのだろうか。

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随談第27回 上村以和於相撲噺(その4)

つい数日前、新聞で元小結の潮錦の死亡記事を見たと思ったら、その数日後に今度は元阪神タイガースの一塁手の遠井が死んだという記事が載った。どちらも普段は忘れている名前だが、何かのきっかけがあれば記憶はただちに甦る。

潮錦は渋い力士で、仁王さまそのままのような体躯の四つ相撲、あまりにも堅実な取り口なので自分の力以上の相手にはまず勝つことができない。その代わり下位の相手には負けないから随分長いこと、幕内上位で取っていた。たった一度、横綱の朝汐に勝ったのが生涯唯一の金星で、賞をもらったのもこのとき一回限りだった筈だ。正直、面白みのある力士ではなかったが、しかし個性はあったから記憶は鮮明である。ある場所、千秋楽に初日を出して1勝14敗ということもあった。遠井も、あまりにも守備範囲が狭いのでむざむざと一、二塁間を抜かれてしまう。名前の遠井吾郎をもじって遠いゴロと揶揄されたような選手だったが、しかし記憶には残る選手だった。つまりどちらも、あまりパッとした存在ではなかったが、しかしザラにはいないユニークさを持った力士であり、選手だった。

この二人の場合は、たまたま相次いで死亡欄で名前を見かけたわけだが、舞台や映画の俳優たち、相撲取りや野球の選手たち、その他さまざまなジャンルで、普段は忘れているがなにかのはずみに名前を見、聞けば、ただちに往時の顔や姿を思い浮かべられるかつての小スターたちが、どれほど大勢いることか。ほとんど関心を持ったことのない者もあれば、ひそかに声援を送りつつ見守っていた者、出てくるだけでうんざりするのが例だった者もある。しかしどれも、いま思えば貴重な思い出の種を提供してくれた人たちというべきである。

これは野球の話だが、たしか八島というピッチャーが巨人にいた。見に行った日、たまたまその八島がリリーフで投げて不出来である。打たれるというより、見ていていらいらするのである。私の後方すこしはなれた席にいたオジサンが「八島ひっこめろー、川崎を出せー」と野次を飛ばし続ける。川崎は後に西鉄ライオンズでも活躍した、四角い顔をしてナックル・ボールが得意だった川崎徳二である。あまりひどい野次なので「きたない野次はやめろ!」と別な野次が飛ぶほどだったが(飛ばしたのはじつは私の父だった)、やがてその野次の要求どおり、八島が引っ込められて川崎に代わって、試合はひきしまった。さてそのとき、いまも実に鮮やかに覚えているのは、マウンドを降りて戻ってくる八島が、野次の声の主の方をしきりに見上げていた姿である。

相撲噺の筈が別な話になってしまったが、じつは前回のつづきで書こうと思っていたのは、中学生のときに見た、二所の関部屋の一門と出羽の海部屋の一門の都内巡業の情景である。当時は東京の街中にまで、大相撲の巡業がやってきたのだ。もちろん戦後まだ日の浅い貧しい時代だったからには違いなかろうが、大相撲の名高い関取たちを間近に見る喜びは、国技館で見る本場所とはまた違うものがあった。(だって私は、つい二、三日前に横綱になったばかりの栃錦を、そうやって見たのだから!)

次回はその話をしよう。

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