1月の新聞劇評掲載予定日

(1)歌舞伎座評 1月13日(金)

(2)国立劇場評 1月18日(水)

いずれも日経新聞夕刊。

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随談第408回 今月の訃報―北杜夫の死―(修正版)

芝翫のことは、もちろん別にして、心の底に波紋を広げた訃報といえば、この月では、といってもぎりぎりになってしまったが、やはり北杜夫の死ということになる。もう久しく、読んでいなかった。十年ほど前に父の斎藤茂吉を描いた四部作を書いたときも、久しぶりに読んで見ようかと気を引かれつつ、目先の多忙にかまけてしまった。こういうものは、やはり読まなければいけない。そういう本の読み方を、まったくというわけではないにせよ、いつの間にかしなくなってしまったことを、恥ずかしくも、ちょっと情けなくも思う。本というものは、何かの目的だの、目論みだのがあって読むのは、やはり本当は下の下なのであって、興味とか関心とかいうものは、本来、無目的、無償のものであった筈なのだ。

北杜夫は、新しい作品が本になるとすぐに、リアルタイムで読んだ幾人かの作家のひとりという意味で、ある特別の懐かしさがある。といっても、おそらくかなりの数がいるであろう北杜夫愛好者に比べれば、さほどたくさん読んでいるわけではない。まして、『どくとるマンボウ』シリーズを全部追いかけて読んだ、などという人には、足元にも及ぶまい。つまり、若き日に愛読した作家の一人とはいえても、マニアになるような意味での熱愛はしなかったことになる。しかし懐かしいという意味では格別な思いがあるのは、敢えて紋切り型の常套句を使っていうなら、私にとっての青春の書の一冊だったからという他はない。

懐かしさということからいえば、『どくとるマンボウ』のいちばんはじめの『航海記』が何といっても懐かしい。北杜夫のユーモアということは誰もが言うことだが、書いてある内容と、文章のテンポとかリズムとか間合いとかいうものが、天然自然、その人となりとひとつになっているという意味で、HUMOURとは、つまり文は人なりということなのだということを、私はこの本によって知ったのだという気がする。阪神が(タイガースである)四番バッターの田宮をトレードに出したのを、寄港地で読んだ日本の古新聞で知って、阪神は何故田宮を手放した! と絶叫したり、というような、結構、ワザトラシイ冗句も多いのだが、それすらも、文は人なり、の中に納まっているところに、天然自然のHUMOURたる所以があるに違いない。

『青春記』については、あまりにも語る人が多いだろうし、じつは私はこの本に関しては、後出しジャンケンならぬ後追いの気味でもあったので、あまり聞いた風のことを書くのは面映い。それよりも、何といっても一番愛読みもし、懐かしくもあるのは『楡家の人びと』だ。これこそ、この作者でなければ書けない作品であり、この作者の最も資質に適った作品に違いないが、いま、こういう小説はどのぐらいの人たちに読まれているのだろう? 日本の市民小説を確立した、などと新聞も紹介しているように、文学としての評価は確立していはするのだが、それとはちょっと別に、少し気になる。

「戦前」と呼ばれている、昭和のある時期までの東京の市民が、といってもある限られた一定の階層には違いないが、確実に持っていた生活を、これほど瑞々しく描き出したものはない。それこそ、森本薫が『女の一生』に描き出したのも、いうなら『堤家の人びと』であり、三島由紀夫が推奨した、少年だった作者たちが夏休みに登山鉄道に乗って箱根へ避暑に行く光景の瑞々しさも、やはり根をひとつにするものだろう。戦後になって、人口の98パーセントだかが「中流」の意識を持つようになったり、それがバブル=泡沫と消えた現在にあっても、人々が思い描いている「良き生活」とは、端的にいうなら、『楡家の人びと』に描き出されている「戦前」という時代にある階層の人々が手中にしたような「生活」の当世流のバージョンでることは間違いない。それは、テレビのCMを数時間も眺めていれば明らかである。

「躁」だの「鬱」だのと、しきりに吹聴するようになり、やがてそれが文字通り病膏肓に入って、奇人伝中の人になってしまってからは、私にはあまり面白いとは思えなかった。茂吉四部作は、これからでも是非読みたいと思っているが、私にとっての北杜夫は、やはり遠い思い出の中にだけ生きていたのだった。

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随談第387回 明治座歌舞伎を応援する

明治座に久方ぶりに歌舞伎が掛かった。謳ったタイトルが「五月花形歌舞伎」。すっきりとして結構である。座組みも亀治郎・染五郎・勘太郎・七之助という顔ぶれで、これまたすっきりしている。

そもそも、などと言い出すまでもなく、明治座は元来、歌舞伎興行の一角を担う劇場だった。戦後の一時期は、新橋演舞場とほぼ同格だったという印象を持っている。当時は歌舞伎以外にも新派・新国劇その他が毎月、堂々の興行を行なっていたから、当然のように明治座もその一角としてのイメージでいたわけだ。昭和五十年台には、毎年四月は猿之助の復活物を初演する牙城だった。猿之助の業績のなかでも、最も価値高いものと万人から見做されている復活ものは、ほとんど明治座を本拠として創られたのだ。・・・などと、いちいち言うまでもない。さればこそ、明治座自身、いまの建物を作ったときの杮落しは歌舞伎で、しかも二か月興行で開けたのだ。

またもそもそも、だが、いまある東京中、いや全国と言ったっていい、歌舞伎の劇場として、その規模、体裁、格式、機能、どこから見たって、明治座だけの立派な資格を備えている劇場が幾つあるだろう。今度改めて客席から眺めて、その感を強くする思いだった。(たぶん、ビッグ3に数えたっていいのではないだろうか?)唯一、というべき難点は、三階席を少なくしてしまったことで、学生など、若い観客の動員には、足枷とならないような配慮が必要だろうが。

さて、こんなことを長々書いたのは、明治座が今度久しぶりに、しかも花形歌舞伎で開けることに、私は期待するところ只ならないからである。亀治郎・染五郎・勘太郎・七之助という顔ぶれもいい。もちろん何もこの四人に限ることもないが、彼らにとっていま最も必要なのは、自分たちが責任を負って、いま取り組むべき歌舞伎の狂言・役々に挑み、我が物としていくための「場」だと思うからだ。すでに人気者としての知名度を獲得している彼等は、一見、いろいろな役に取り組んでいるように見えて、じつは、もうとっくに取り組んでいなければならない、歌舞伎の根幹をなすような大役を、まだいくらもやっていないのだ。たとえば染五郎は、いわゆる三大名作や『妹背山』『熊谷陣屋』等々といった狂言の主要な役をどれだけやっているだろう?

かつての東横歌舞伎のことを、いま持ち出すまでもない。よく若手の道場というが、いま正月にやっている浅草歌舞伎の、もうひとつ兄貴株の面々に、いまでなければできないことをする「場」がほしい。そういう「場」として、今度の明治座花形歌舞伎はまさに切って嵌めたようである。願わくは、これが今回一回限りに終らないことを。伝え聞くところによれば、年に一度と言わずに、との発言が、記者会見の席であったとか。その言やよし、年に一度と二度では大違い。かつての東横などは、多い頃は年に数回に及んでいた。春秋二回、確かな「場」として確立できたなら、「花形歌舞伎」は歌舞伎史に名を残す役割を果すことになるに違いない。

さて今回、いや第一回だが、亀治郎が、開幕に「四の切」で忠信を勤めたっきりなのが妙だと思ったら、来月新国立出演のための稽古なそうな。ま、仕方がないな、と物分りよく言えばなるのだろうが、そんな裏の事情は客の知ったことではないから、これはちと、せっかくの明治座歌舞伎の復活、花形歌舞伎の船出に水を差す。夜の部にもせめて一役をという常識論で行くなら『牡丹灯篭』でお峰というところだろうが、もっとも亀治郎が出ないために、染五郎と七之助が伴蔵・お峰と新三郎・お露という二組の夫婦・カップルを早替りで勤めるという新演出が出来、七之助がそのお峰でオヤと目を瞠らせる、一皮向けた成長振りを見せるという、意外な効用も生んだことになる。それならせめて、亀治郎の三遊亭円朝なんていうのもちょっとみてみたいし、裏の事情など構わずに言うなら昼の部にも出て、亀治郎の八右衛門なんてのも見てみたかった・・・などなど、今回はもう仕様がないが、つまりは、そうやってちょっとのムリも厭わずに出演者一同カバーし合ってフル回転、元気一杯やる気充分、という花形歌舞伎の一座を、この顔ぶれに期待したいからだ。むかし改築前の新橋演舞場で、伯父の猿之助が、竹之丞時代の富十郎の団七に一寸徳兵衛の上に何と義平次まで勤めて、他には訥升時代の宗十郎のお辰に現田之助のお梶という四人組で、最後の捕物まで通して見せた『夏祭』の熱気などというものはなかった。昔話がしたいのではない。当時猿之助はまだ宙乗りを始める以前の、二十六、七歳というところだったろう。そういう活気ある「花形」一座を、またそういう活気を実現する場としての明治座花形歌舞伎を期待したいからこそ、いつもとちとトーンを変えて、かく言うのである。

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