随談第271回 野球ばなし・これぞ野球

なかなか書く暇がなくて、三週間ぶりの随談である。その間に日本シリーズが終った。誰もがすでに言っているように、いいシリーズだった。いいゲームが多く、接戦で面白かったというだけでなく、まさしく、これぞ野球という面白さがあった。

まず、渡辺久信監督がいい。いかにも野球選手らしい顔をしている。「らしい顔」というのは、いい意味と良くない意味と両方あって、良くないほうは「××面(づら)」ということが多い。筑紫哲也もこの間に死んで、だれかが新聞人らしくない顔と言っていたが、数多い追悼のコメントの中でこの言に最も同感した。但しもっと正確にいえば、筑紫氏の場合は「らしい顔」と「らしくない顔」と両面もっていたと思う。新聞人という人種は、他の業界に比べても、いかにも「業界人顔」をした人が多いような気がする。いわゆる「ぶんや顔」である。「らしい顔」をしながら「ぶんや顔」にならなかったところに、筑紫氏の真骨頂があったのだと思う。

渡辺久信の場合は、いかにも「らしい顔」で、その「らしさ」が気持ちがいい。古田のことを前に書いたことがあるが、彼の場合は「らしくない顔」一点張りであるところに、「よさ」と「つまらなさ」が同居している。現役時代は「らしくない」が故のよさが際立っていたが、監督になってもその顔を引きずっていた。このまま終る人間ではないと思うから言うのだが、引退後、解説者などとして出てくる「らしくない」顔の古田は、正直、あまり見たくない。渡辺久信は、いま、「らしさ」によって輝いている。そこがいい。

第二に、これも既に言われているが、「勝利の方程式」などという紋切り型の決まり文句を言わず、岸と涌井をずばずば投入したり、最終戦では西口・石井・涌井と先発投手のリレーをしたりした投手起用の痛快さである。方程式というのは、統計学から数字の操作で割り出した確率であって、だから博打だろうと夫婦喧嘩だろうと、頻繁に行なわれるものにはすべて方程式というものは成立し得る。野球だって、長いシーズンを展望したりするときには役立つだろうが、いつなんどきでも後生大事に方程式を持ち出すのは馬鹿げている。大体、スポーツの勝負にそんなちまちましたものにこだわるのは、おもしろくない。むかしの三原監督やいまの野村監督が、時折、それ風のことを言ったりするのは、誰も気がついていない時に誰とも違う観点から見て気がついたことを、神秘めかした勿体をつけて言うだけのことであって、じつは、方程式でも何でもないのだ。大人の洒落である。だから、面白いのだ。

岸や涌井のおかげで、むかしの稲尾や杉浦のシリーズ四連投のことが久しぶりに話題になったが、選手生命も大事だが、百球投げたから交代、みたいなことばかりでは、貯金の残高を計算しながら野球をしているみたいで面白くない。以前、大関になる前の旭国が、何だかのことで途中休場し、命は保証しないという医師の忠告を振り切って再出場し、見事に星を残したことがあった。保証されなかった筈の命だが、旭国は別に死にもせず、大関にまでなり、いまも親方をやっている。たとえ投手生命は短かったとしても、あの四連投があればこそ、稲尾も杉浦も、その他の誰彼も、人の心に永く留まり、おそらく自身のその後の人生にも力を添えたに違いない。そういうことも、野球を見たり相撲を見たりすることの醍醐味の内なのだ。

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