随談第284回 今月の芝居から 『京鹿子娘二人道成寺』論

玉三郎・菊之助の『京鹿子二人娘道成寺』は、初演が早くも五年前、通算で四度目、東京では今度が三演目ということになる。刮目すべきは、これが単なる「好評につき再演」というのとはまるで違う、見るたびごとに新たな発展・展開を見せ、見る者にあらたな発見と喜びとを与え、おそらくこの後も、そうした進化を続けて行くであろうと予測させることである。二十一世紀の歌舞伎が新しい美を切り開いた精華、と新聞に書いたが、それは単に、今世紀になってから作られた新作中のナンバーワンという意味ではない。

二〇〇四年一月の初演のとき、私は新聞にこう書いた。「現代の立女形と花形が時に競い合い、時に手を取りつつ踊る。玉三郎の心憎いうまさと菊之助の果敢な役者魂が交錯する面白さが、いまこの時ならでは見られない興奮を呼ぶ。」つまりこのときは、玉三郎がゆとりをもってリードしつつも、菊之助が、こちらをドキリとさせるような大胆さで切り込みをかけると、玉三郎も何をとばかりムキになって切り返す。まだまだあなたに負けるわたしではないわよ、というところを見せるのだが、しかし菊之助もただ負けてばかりはいず、一太刀ふた太刀、いや三太刀ぐらいは切っていたか。ともあれ、ふたりの役者魂のぶつかり合いに、興奮のほとんどは尽きていた。

二年後の二〇〇六年二月の再演のとき、私の書いた評はこうだった。「玉三郎と菊之助の二人の白拍子花子が影と本体、時に双面、時に姉妹かレズビアンのように、怪しくも華やかに踊る。菊之助の果敢な挑戦が火花を散らすように鮮烈だった二年前に比べ、菊之助の成長を経た今回は、たおやかと清冽、それぞれの個性を持つ二人の女形の文字通りの競演の趣だ。二人で各パートを踊り分ける従来の『二人道成寺』に対し、二人が陰と陽のように離れては重なり合う相乗効果が、二倍三倍の興趣と興奮を呼ぶ。二十一世紀歌舞伎の精華として後世の年代記に残るだろう。」

つまり、二人の火花を散らすような競い合いは変わらずながら、そればかりでなく、むしろそれ以上に、ふたりの花子という内容の面白さが、ぐっと前面に出てきたのだ。見るこちらにも、それを察するだけのゆとりが出来たということももちろんあるが、それだけではない。それだけではない要素の方がずっと大きい。鍵はもちろん、役名が二人とも「白拍子花子」だというところにある。「花子」と「桜子」が分担して踊る在来の『二人道成寺』とは、根本のところから発想に違いがある。これは別作品と見るべきなのだ。

「双面」という昔ながらの趣向との相違は、近代以前の人間が芸術的直感で感じ取った人間存在の多面性と、フロイトやユングを知り、それがすでに万人の常識と化した「現代」という時代に生きている玉三郎(なり菊之助)が「双面」という趣向の奥底に見たもの、という相違である。こういう人間観は、前世代の名女形たちには考えつかなかったであろう。その意味で、これはすぐれて「現代」的であり、先に「二十一世紀歌舞伎の切り開いた美の精華」といった真意もそこにある。

その上で、今度の舞台を見て強く思ったのは、初演・再演・三演と、回を重ねるたびに、二人の花子の関係に新たな相が生まれ、それが、曲そのものに変化と奥行とを生み出してゆくことである。それは、単に菊之助が成長したとか、玉三郎が円熟したとかいうこととは、次元の違うことなのだ。

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