随談第289回 『曽根崎心中』について

いつまでも病気の話ばかりしているわけにはいかない。そろそろ芝居の話をすることにしよう。

今月、初演以来五十六年という『曽根崎心中』を見ながら、私はひとつのことを思い続けていた。初演以来半世紀余り、お初を演じ続けるという坂田藤十郎の意欲には敬意を表するしかないが、当然ながら、そのことから生じるいろいろなひずみは避けることが出来ない。間もなく八十歳にも手が届こうとい藤十郎が演じるお初は、これも当然ながら、昔と同じではありえない。藤十郎自身は初心を忘れず変らぬ意欲で勤めているとしても、周囲とのバランスというものは、以前とは大きく異ならざるを得ないからだ。徳兵衛が違う。その他の役々も違う。周りを固める役々を演じるのは、すべて年若の人々である。単にそれは年齢だけのことではない。演技の質、スタイルが違う。藤十郎と、その他の俳優たちの間に、この半世紀の間の歌舞伎の演技の変容が、断層のように現れているともいえる。別の言い方をすれば、藤十郎だけが突出している。藤十郎演じるお初という巨頭を頂いた芝居になっている。

たとえば徳兵衛の翫雀は、なかなかの好演だと思うが、明らかにかつて二代目鴈治郎が勤めた徳兵衛とは違う。和事味がない、などと評する向きもあるらしいが、私は逆に、翫雀を見ながら、この芝居の徳兵衛には和事などいらないのだと確信した。二代目鴈治郎は近年での稀代の和事師だが、それだけに、その徳兵衛は見ようによってはキャラクターとしては曖昧で、よく分からないところがあったともいえる。鴈治郎一代の芸として見るなら格別、当時扇雀の、革命的ともいわれた新しい歌舞伎という観点から見るなら、その徳兵衛のキャラクターには不得要領なところが多々あった。革命的な新しい歌舞伎なのに、和事から脱しきれない。(そこにこそ、和事役者鴈治郎の栄光があったのだといえば、そうともいえる。)その点、翫雀の徳兵衛は、小僧を使用し、奉公人を使う術も知っている、ともかくも一人前の青年商人であるという意味で、性格が明確である。和事だの何だの、歌舞伎の約束や慣習から自由な、新しい歌舞伎の人物にふさわしい演技であり人物像である。

ひとり翫雀だけではない。我当の久右衛門も、いままで見た誰の久右衛門よりもその役らしい。八代目三津五郎だ十三代仁左衛門だ、錚々たる優たちも演じているが、みな立派過ぎて、役よりも役者の方が大き過ぎた。古典ならともかく、これは宇野信夫作の新戯曲としては、キャラクターを曖昧にしてしまい、よいこととは本当はいえない。その他、お初を取り巻く役々は、それぞれに、藤十郎のお初を支える上で一糸乱れぬチームワークを見せている。つまり、今や『曽根崎心中』は、藤十郎のお初という「壮大なるもの」を見るための芝居になっているといえる。

そうなると改めて思うのは、もう大詰の「道行」はなくてもいいのではないか、ということである。あれは、二代目鴈治郎の徳兵衛には似合っても、翫雀の徳兵衛のような現代的で明快なキャラクターには、「道行」はもうそぐわない。今度ほど、「道行」を長く感じたことはなかった。

誤解されると困るが、私は藤十郎を難じているのではない。藤十郎にとっての『曽根崎心中』というものの意味も知らないわけではない。ただ、時の流れと共に、共演者も変れば観客も変る。何よりも、芝居全体の中でのお初の、藤十郎の占める比重が、以前とは比較にならないほど、大きなものになってしまっているということである。藤十郎は、そのことに気づいているだろうか?

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