随談第293回 おそれ入りました

森光子の『放浪記』を見て、素直におそれいりましたと頭を下げようと思った。実は危うんでいたのだ。よした方がいいのではないかと思ってもいた。根拠がないではない。この正月、元日に民放で恒例の長時間時代劇のほんの一部、たまたまテレビをつけたら映っていたのをほんのしばらく眺めただけだが、(たしか亀治郎が秀吉の役をやっていた)、そのナレーターがひどく生気がないので誰かと思って新聞で確かめたら森光子だったので、覚えずぎょっとしたことがあった。

しばらく前にNHKの大河ドラマの語り手を奈良岡朋子がやっていた。これは悪くなかったが、しかし妙に下に置いたような、低音で抑揚のない語り口という、この手の語り手のお定まりのやり方であることに変りはなかった。(ついでにけなすようで申し訳ないが、いま放送中の直江兼続のドラマで宮本信子がやっているのは、ちと臭すぎないか。あの妙に勿体をつけた抑揚は、一体どういうところから出てくるのだろう? 宮本信子という女優は、達者にまかせて臭くなることはあっても、あんな風にエラそうにもったいぶるヒトとは思っていなかった。ちと幻滅せざるを得ない。さらについでだが、大体、新劇の有名俳優がよくやっている名作物のナレーションというのが、私はあまりぞっとしない。妙に「コセイテキ」だったり、感情移入の度が過ぎたりするからで、イメージが限定されてしまうのが邪魔臭い。語り手というのは、NHKのアナウンサーみたいなフラットな方がいい。想像力をはたらかせるのは聴く側にまかせてもらいたい。)

話がそれたので閑話休題として、話題を元に戻すと、その時の森光子のナレーションを聴いて、正直なところ、これはいけないと思わざるを得なかった。奈良岡朋子の意識しての抑揚のなさとは似て非なるものである。生気がないだけでなく、たとえば足弱の人が、自分の足で歩いているつもりでも、はたから見れば、辛うじて転ばないだけ足が動いているだけのような歩き方をするようなもので、言葉がまったく立ってこないのだ。いくら何でも、半年後に『放浪記』をやることになっている人のものとは思われない。その一年前、昨年春のシアタークリエの時も心配したが、講談本で読んだ、笹野権三郎と立ち会う八十翁の宮本武蔵みたいに、北条秀司作の『京舞』の三代目井上八千代みたいに、いざとなると、見事にやってのけた。そのためしがあることは重々承知していても、あれを聞いては、今度ばかりは悲観的な観測をせざるを得なかった。もう、よした方がいいのに・・・

だが、それは文字通りの杞憂だった。最初の出の足取り、セリフの声音から、過不足なく、且つ力強い。しかも序幕は大正12年のまだ若い芙美子なのだ。二十代の、若い芙美子になっていなければならない。その意味では、武蔵や井上八千代以上ともいえる。

そういえば、先月末に歌舞伎座でやった俳優祭の『シンデレラ』に、雀右衛門が出演したという。一日だけ、小さな役なら、まだ出られるのか。思えば、森光子と雀右衛門は同じ大正9年、1920年生まれの同い年の筈である。二人に共通するのは、若いときには頭を押さえられ、高齢に近づいてから頂点に立ったという人生の歩み方である。いつまでも元気でいるためには、あまり若くして得意の絶頂に立ってしまわない方がいいのかもしれない。

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