随談第294回 大正9年生まれ

前回、森光子と雀右衛門が大正9年、1920年生まれの同い年で、ふたりがいつまでも若いのは、前半生は何かと頭を押さえられたり、紆余曲折の歩みの果てに、ようやく高齢に達して頂点に立ったという人生の歩み方にあるのではないかと書いたが、もうちょっとその続きを書きたくなった。

森光子が『放浪記』で主役をつかんだとき、すでに四十歳になっていた。あいつよりうまいはずだが何故売れぬという自作の川柳は、内心の口惜しさと鬱屈を、川柳という自身を客観視する笑いの器に盛ってみせたところが、おのずから森光子の芸と会い通じているのが卓抜だが、名句というべきである。その無念さ、満たされぬ思いが、彼女の役者人生の根元にあって、人一倍の売れっ子になってからも、飽くなき貪欲さとなって生きつづけているのに違いない。満たされぬ者は、若いのである。

雀右衛門は、戦地に六年を過ごした後、戦後帰国してから女形の修業を始めた。わずか三歳しか違わない歌右衛門を、遥か先を行く先輩と立てて、しかし機鋒は内に密かに秘めて、追走する。ほとんどそれは、絶望的な努力であった筈である。歌右衛門・梅幸に続く第三の女形などと、マスコミ流のキャッチフレーズがついたりもしたが、歌右衛門は第一世代に数えられ、雀右衛門は第二世代に属するものとされた時代が、ほとんど昭和という元号が終わりになろうという頃まで続いた。この第二世代には、当時「谷間の世代」という別名がついていた。第一世代と、その子どもたちの世代である第三世代との間に存在する、くすんだ世代というわけだ。雀右衛門の無念さ、満たされぬ思いは想像に難くない。

森光子が、従兄弟のアラカンのもとで映画女優から出発し、前座歌手となり、戦後はラジオや初期のテレビで、ダイマル・ラケット等の漫才師の相手をするといった波乱に富んだ前半生は、彼女の芸が、日本の大衆芸能のさまざまなジャンルから養分を吸い取って肥やしにしていることを物語る。このほど本になった半生記は、一見さらりと語りながらじつは凄いことを語って実に面白いが、思えばこういう、雑多ともいえる経験があの芸を作り出したわけだ。自伝を読んで面白かったのは、まだ駆け出しの映画女優の頃から、他人の芸をよく見ていて、それとは違うことをやろうとしたという一節である。他人のすることをよく見て、芸を盗むというのとは、ちょっと違う。私は生意気な女優だったと自ら言うが、不逞といえば不逞な、いわば、中日の落合監督言うところの「俺流」である。

雀右衛門には、女形として売り出して間もなくから、映画俳優大谷友右衛門としての約十年間がある。その末期から、関西歌舞伎に事実上籍を移したかに見える数年間がある。しかもそれは、ちょうど関西歌舞伎凋落の時期と重なる。(当時の『演劇界』の記事を見ると、ブームを起して売り出した今の坂田藤十郎の扇雀が東宝に行ってしまった穴埋めの意味合いであったとある。)国立劇場が出来てからは、勘弥の相手役を勤めたりそれなりの活躍は見せたものの、この人には遂にホームグラウンドというものを持たない不安定さがついて回った。平成の世となり前代の大立者たちが姿を消す頃から、ようやく雀右衛門の時代が来たが、裏返して言うなら、それだけ、雀右衛門の芸は海千山千の人のそれなのである。森光子とは少し意味が違うが、この人もやはり「俺流」なのだ。

大正九年生まれとは、終戦の年を二十五歳で迎えた、当時の流行語で言う「アプレゲール」の金箔つきの世代である。森光子にも、雀右衛門にも、大俳優になった今日といえども、アプレゲールの匂いを嗅ぐことが出来る。もっとも、たとえ子どもの記憶にせよその匂いを辛うじて知っているのは、私などの世代が最後のぎりぎりかもしれない。

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