随談第295回 前進座『江戸城総攻』

国立劇場でやっている前進座の『江戸城総攻』がなかなかいい。「勝安房屋敷」といわゆる『慶喜命乞』を第一幕、「薩摩屋敷」の勝・西郷の会談といわゆる『将軍江戸を去る』を第二幕として合計二時間と五分に圧縮した鈴木龍男の改訂がよくできている。先達ての劇団若獅子の『王将』もそうだったが、本来別々に作られ、上演された三部作を、一本の長編として再生させることに成功している。

成功と言った理由は二つ、ないし三つある。ひとつは、このような形で一日の上演を可能にしたこと、それ自体の意義。もうひとつは、別々に上演したのでは見えにくい一貫性を明らかにし、一本の歴史劇として成立させたこと。もうひとつは、平素、ついアプリオリにあるものとして継承され、ときには一種の「型」のようにすらなっている演技や演出を、洗い直し、一作品としての構成上、本当に不可欠であるかどうかを検討・反省する契機としての意義である。第二と第三は連動しているが、どちらかといえば第二は、脚本に内在するものの「読み」にかかわる問題であり、一方第三の理由は、演技演出という舞台上の表現にかかわる問題と言える。

たとえば第一幕で「勝屋敷」を出すことによって、益満休之助という人物の輪郭が明確になり、勝と山岡と西郷の三者の関係が平素の『慶喜命乞』だけ見るよりもくっきり描き出されることになる。おのずからそれは演技にも反映して、山岡が必要以上に江戸っ子がったり、西郷がむやみにワハハハと高笑いして豪傑ぶりを強調したりする必要がなくなる。夾雑物をそぎ落とすことが可能になった。(それにつけても、「勝安房守屋敷、慶応四年三月六日午後」という場面ははじめて見たが、序幕としてなかなか面白い。勝も山岡も、いつもの『慶喜命乞』や『薩摩屋敷』だけで見るより、人物としてもうひとつ奥行きのある姿を見ることになる。改めて気がつくのは、山岡は青果好みの人物であるばかりか、更に進んで、作者の分身でもあるかのようだ。)

通常の『将軍江戸を去る』の序幕の、天野八郎以下の彰義隊の面々が警固している中を山岡が押し通る場面もカットされる。これはこれで、彰義隊を一筆書きにした面白さもあって捨てがたい場面だが、大総督府の詰所に駆けつける場面と趣向がつく半面があるのと、時間の関係もあるだろう。 さっき成功の第二の理由として挙げた、別個に上演したのでは見えにくい歴史劇としての一貫性というのは、こうして場面を時系列に従って組み替えて提示すると、わずか一ヶ月という切迫した中での動きが明瞭に見えてくるわけで、歴史の急所に触れるスリリングな経験を観客もおのずからすることになる。

役者も気合充分、稽古も充分。山岡が全編を通じての中心であり儲け役でもあるが、嵐広也は若々しい山岡であるのがいい。大歌舞伎でやる山岡は、どこか、後年の名士となってからの姿から逆算してこしらえている気配があるが、それと無縁なところが前進座ならではといえる。藤川矢之輔の西郷も、のちの大西郷のイメージからは大分軽い人物に見えるのは、大局において、すなわち七分目は納得、それにしてももうちょっと重みがあってもと思わせるのが三分というところか。嵐圭史の慶喜は、知的でありながら内面に湿潤な鬱屈を秘め持っているところが面白い。歴代の慶喜役者中でも相当の成績。一番儲けたのは勝海舟の瀬川菊之丞で、知の爽やかさを演じて、まさしく前進座の三津五郎である。

「中村梅之助舞台生活七十年」に「松本清張生誕百年」という肩書のついた『左の腕』は、四十年近く前に見た翫右衛門所縁に比べ、二番目狂言としての座りがよくなっている。そのことが、前進座特製の新世話物として、いいことかどうかはまた別の問題だろうが。

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