随談第296回 文楽の『ひらかな盛衰記』

この月の文楽は国立文楽劇場開場二十五周年とかで、開幕に『壽式三番叟』を出したりするわりには、『伊勢音頭』だの『日高川』だの、何だか納涼公演みたいな演目が並んだ。住大夫が『油屋』を語るというので、それ目当ての人で昼の部の方が大勢押しかけているようだが、住大夫の芸を聞く面白さはあるにせよ、やはり『伊勢音頭』というのは歌舞伎で見てこそ面白いのだということを改めて思わざるを得ない。「奥庭十人斬の段」などを見ると、随分残酷なんだなあ、などと他愛もない感想が浮かんだりする。よく福岡貢の役の性根としていわれるピントコナという、和事と辛抱立役を掛け合わせたような、わかったようなわからないような役柄に、夏芝居の風情をブレンドしたところに、歌舞伎ならではの知恵があったのだ。

『日高川』も、今度切語りになった咲大夫に「真那古庄司館」を語らせるところにミソがあるのはわかるが、それ以上に出るほどの感興は湧かない。せっかく切り語りになっての初の床としては、第一球に変化球を投げるようなものだ。(むかし阪神の名投手で、七色の球を投げるといわれた若林というピッチャーがいた。セ・パ二リーグに分かれた年、新結成の毎日オリオンズに移籍したとき既に四〇歳になっていた。この若林が、第一回の日本シリーズ第一戦に先発として登板することになって、ひと晩考えて第一球はボール球を投げることにした。老巧な知性派投手の高等数学的投球というので伝説になったが、今度の咲大夫の「真那庄司館」にそれほどの「哲学」があったかどうか。)

というわけで、今回の文楽は夜の部の『ひらかな盛衰記』の方がはるかに面白かった。「梶原館」などは、文楽だとちょいと地味目で、平次景高の役を、お弁当をいろいろくっつけて仕立て直した歌舞伎版の方がおもしろいが、「先陣問答」から「源太勘当」と語りこむ内に、やはりこの作は浄瑠璃をみっちり聴くために出来ているのだと思わせられる。

しかしそれよりも更に面白かったのは、「辻法印」から「神崎揚屋」で、嶋大夫のねっとりした語りとコトバのうまさで、堪能させられた。しかし思いもうけぬ拾い物は、次の「奥座敷」で母の延寿とお筆千鳥の三人の女を語った咲甫大夫で、お筆と千鳥の姉妹の、おとこまさりで思考も行動も直線的な姉と、女性らしいやさしさの陰に、強烈なまでの芯の強さを秘めた妹の対照、母の延寿の知的な捌きを浮き彫りにしたのは手柄といってよい。それにしても、梶原家というのは、余計な賢しらから矢を射そこなって恥をかく父の平三景時にせよ、先陣争いで負けて恥をかき、名誉回復のための戦を前に女房を廓勤めさせる源太景李にせよ、(平次景高は問題外にせよ)男たちは揃いもそろってダメ男で、女たちのおかげで持っているのが、こうして見るとよくわかる。(当節はやるジェンダー論のセンセイたちに教えてあげよう!)

改めて思ったのは、この前の『襤褸錦』といい、文耕堂という作者の知的な魅力である。前者で、阿呆の兄助太郎を敵討ちの足手まといと我が手にかける母と、後者で、廓の客になりすまして傾城梅ケ枝の千鳥に三百両の合力をし、敵討ちのみを念じて生きてきたようなお筆の説得に成功する、情理兼備の母延寿と。

率直に言って随分と手薄になってしまった文楽の現有勢力だが、いざ聴いてみると、予期せぬヒットが巧打される。腐っても鯛? いや、これぞ底力というべきだろう。

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