随談第300回 富十郎の「矢車会」

中村富十郎の「矢車会」が歌舞伎座で久しぶりに開かれた。芝翫、吉右衛門、梅玉、魁春、勘三郎、福助、橋之助、染五郎、松緑等がゲスト出演するという豪華版で、富十郎は昼の部に『勧進帳』で弁慶、夜の部に『連獅子』の親獅子を勤める。それぞれ、鷹之資に義経と子獅子をさせるのがミソになっている。

富十郎の『勧進帳』といえば、私の歌舞伎体験のなかでも幾つかという、飛び離れて別格的な傑作として心に残っている。昭和53年6月の第一回の「矢車会」のときは三階の三列目で見たのだったが、最後に花道にかかるとき、席の上の方からどーっと音を立てて雪崩れてくるような濃密な気配が感じられたのを覚えている。皆が身を乗り出すのがマッスとなって体感されたのだろう。また実際、飛び六方を見ようと駆け下りてくる人も多くあったようだ。

その何年か後に、公文協の公演で再び弁慶を勤めたときは、都心から最も近い会場の調布の市民ホールは、客席の顔ぶれ、雰囲気は歌舞伎座で特別公演でも見るような有様だった。弁慶は、出来からすれば、この公文協のときのが一番だったような気がする。私は、調布のあともう一回、小田原まで見に行った。当時、富十郎の弁慶というものが本興行では見る機会がなかった上に、いかに待望されていたか、現在からは想像もつかないほどのものがあったのだ。『勧進帳』のほかにも、『娘道成寺』にせよ『鏡獅子』にせよ、この前後、「矢車会」や国立劇場の舞踊公演のような機会に、富十郎が渾身の力を籠めて演じた傑作群が如何に凄まじいものだったか、いまわれわれが語り伝えておかなければ、後世の人には到底判ってもらえなくなってしまうだろう。繰り返し言う。この当時、富十郎のこれらの傑作群は、歌舞伎座の本興行では見られる機会がほとんどなかったのである。

さて今度の『勧進帳』は、傘寿を迎えた富十郎が、自身としては弁慶を舞い納め、同時に子息の鷹之資に伝えるため、という一心に貫かれた『勧進帳』だった。演出も、自身の体力と、能の『安宅』では子方が義経を勤めるのに学んで鷹之資に義経をさせることと、両方の理由から、種々工夫をこらした、今回限りの特別な演出になっている。セリフも、富樫をつきあう吉右衛門のそれが今日オーソドックスとされている歌舞伎味たっぷりなのに対し、能・狂言に近い感触である種直截的だが、これを散文的と言うのは間違いだろう。音吐朗々、『勧進帳』の読み上げも問答も、実に明快である。衣裳も、豊国描く七代目團十郎の大首絵の弁慶に戻って(また自身、かつて日生劇場で演じた時と同じく)縞柄にしたのは、能の『安宅』から歌舞伎に移したその初演に真似ぶという心であろう。

昨秋の『石切梶原』もそうだったように、中段以降、膝の悪いことへの配慮から正座する件は合引にかかる。「鎧に添いし袖枕」以下の件も立ったままで通す。酒盛りの件も合引にかかったままで、番卒を相手に酒をせがんだり、酔って鬘桶の蓋を頭にのせるなどといったことも省いてしまう。歌舞伎らしい愛嬌は敢えて捨てている。幕外も、飛び六方ならぬ「摺足六方」で、かつての、これが本当の飛び六方かと我々を驚喜させた昔を思えば感慨一入だが、しかしこれはこれで立派であり、傘寿という記録的高齢でつとめる弁慶として、充分に納得が行く。鷹之資の義経も、かっきりと折目正しく、能の子方に倣うという趣旨を演じ果たしている。

『連獅子』は、皇太子ご来臨という「おまけ」がついたが、これも、前ジテ・後ジテとも、親が子を見守る目という一点に貫かれている。その帰結として、すべてを決するのは、富十郎の身体と芸が無言の裡に語る松羽目舞踊の「格」である。かつての、きびきびした「動」の富十郎は、ここに求めるべきではないが、しかしその「不動」が実は「動」をはらんでいるところが、やはり富十郎なのだ。

後ジテは、親獅子は二畳台の上から子獅子をじっと見守るだけ。毛も振らない。が、その姿、その眼差しが、今回最も印象的だった。その親獅子の眼差しを背に、鷹之資の子獅子が毛を振る。これは、実に立派だった。掛値なしに、素晴らしかった。

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