随談第301回 新国立劇場『夏の夜の夢』

ジョン・ケアード演出の『夏の夜の夢』が再演されたので見てきた。二年前の初演のとき、どうにも乗れないままで終ってしまい、気になっていたところなので、この機会に仕切り直しをしてちゃんと見てみようと思ったからだ。

開幕前の音楽はなかなかいい。耳になじんだメンデルスゾーンを生かしながら今日風にアレンジする具合がなかなか快調で、期待を高めるのに充分である。舞台下手側のボックスの「オーベロン・バンド」が男組、上手の女組が「ティターニア・バンド」と称する、四人ずつの「楽隊」がいて、この演奏の切味がいい。メンデルスゾーンが19世紀風の古色を洗い落とされて今日に生きていて、そうなると、やっぱり名曲なんだなあと改めて感じ入らせる。(それにしても、メンデルスゾーンの時代のシェイクスピアって、どんな具合に演じられていたのだろう? どんな風に演じられるシェイクスピアを見て、メンデルスゾーンはあの曲を作曲したのだろう。前から、それが気になっている。)

全編、この「序曲」の調子で行けば、相当素敵な『夏の夜の夢』になる筈なのだが、さて幕が開いて芝居が始まると、嗚呼、やっぱり二年前の記憶が甦ってしまう。テンポだの運びだのが悪いわけではない。相変わらず足の運びのよい音楽に遅れることなく、一見、いかにも快適そうに運んでゆく。どうです、面白いでしょう?と、演出者がにんまりしながら我々の様子をそっと眺めている様子が見えるようだ。が、どうにも乗れない。なまじ一見快速調で進められて行くだけに、取り残されたような味気なさ、煮え切らなさに苛立つ。半ばで幕間があって、後半は大分盛り返すのだが、実を言うと、第一幕が終ったところで、帰っちゃおうかな、という思いが一瞬、頭をかすめた。(帰らなくてよかったけれど。)

つまりは、一見テンポがよさそう(に振舞っているだけ)で、じつはそれほどよくないのだ。とりわけ、四人の若い男女のやりとりがくどく、いい加減いらいらさせられる。しかしおそらく、演出者の意図は、この四人の男女をいかにも当世普通の人間として扱っているところにあるのに違いない。そうでなければ、この四人の配役はなかっただろう。演出者の意図からすれば、彼等はたぶん好演しているのだろう。それなら文句をいうこちらが余計なお世話なわけだが、(でも待てよ。だとすると、ボトムたちの素人芝居を見物しているときの彼らの、いかにも上流意識に由来する態度やコメントはどういうことになるのだ?)中では、ヘレナ役の小山萌子の瑞々しい情感が救いだった。

演出の基本は前回と変っている感じは見当たらない。シーシアス以下のアテネの貴族たちが何故か燕尾服を着ているのもそのままだ。これもちょっと違和感がある。もちろん昔みたいな「西洋時代劇」式である必要はないが、なんだか現代まで届いて来ないで、中途半端な近代のどこかで停まってしまったような感じがする。しかし、セリフの言い方にせよアクションにせよ、村井国夫のシーシアス(妖精の王オーベロンも)以外は、時代劇風の位取りをしたせりふ廻しをしていないから、演出の意図はあくまで「今日」にあるのはあきらかだ。現に森の場面になると、パックが現代の三流私立高校の男子生徒みたいな格好で登場する。最後まで見ると、楽屋風景が出てくるので、すべては彼らの演じた劇のなかの劇であったという、入れ子構造が種明かしされる。

さてこの入れ子構造だが、たしかに『夏の夜の夢』という「芝居」の絵解きとしてはすぐれているし、芝居としても面白くないことはないが、ピーター・ブルック以来(と言ってもいいのだろうか?)のこの手のやり方も、「定番」になってかなり久しいものだ。おやおや、またかという気がしないでもない。勘三郎たちが串田演出でやった『夏祭浪花鑑』や『四谷怪談』も、これの応用なわけだし、インテリはこの手の「絵解き」をするのが好きだから、学者や批評家の受けも悪くないのだが、でもそれなら、歌舞伎十八番『暫』で、オヤ、誰かと思ったら成田屋のニイさんじゃござんせぬか、もうちっと揚幕の方へ寄っていて下さんせぬか、と女鯰と暫がやり合うのだって、同じことではないのだろうか?

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