随談第578回 7月の舞台(訂正版)

歌舞伎学会の機関誌『歌舞伎-研究と批評』に今年2016年下半期の評を書く約束になったので、新聞評とこの随談と、三通りに書き分けなければならず、それはちょいと難儀な話になる。そこでこれから12月までの向こう半年間は、歌舞伎のことは落穂を拾うに留まることになるかもしれない。と、まずはそれをお断りしておいて…

●帝劇『エリザベート』

花總まりのエリザベートが興味深い。わずかな体の構えひとつで役の位を表す「位取り」の巧さ確かさ、歌舞伎の赤姫を連想させる。序幕の小娘から皇太子妃・王妃・国母・老皇太后となる各段階を年配と共に的確に見せる。大仰のようだが日本ミュージカル史上最高の「赤姫」と言って差し支えない。仕草の手先指先の重み、ぎりぎりいっぱいに身を保ちながら、同時にそれが威厳となる微妙な均衡、ちょっぴり歌右衛門を思い出させる。幼い王女を失う哀しみは政岡を、ゾフィー皇太后の圧迫に堪えるあたりは尾上というところか。

涼風真世のゾフィー皇太后にも位取りの確かさ面白さに芝居っ気が加わり、花總と二人で岩藤と尾上をしたら面白かろう。井上芳雄のトートの時に女性かと見紛うような色気、成河のルキーニの曲者ぶりもそれぞれ上手い。

ダブルキャストのもう一方、蘭乃はなのエリザベート、城田優のトート、香寿たつきの皇太后、山崎育三郎のルキーニも適役でありそれはそれで悪くないが、花總が尾上や政岡をさせてみたいと思わせるような意味での面白みを感じることはない。もっともこれは、花總が特別なのであって、それがないからといって悪いわけではない。

前年以来の新演出は、ミュージカルとしては限界近くまで歴史劇に近づいた骨格を持つようになった。トートとエリザベートの二人の芝居にして、歴史をメロドラマの蔭に埋もれさせてしまっていた従来の演出より、ドラマの骨格が明確になったのは手柄である。一般論として私は照明の暗い舞台は好きではないが、この演出に限っては是認しよう。

エリザベートが輿入れする1853年(即ち嘉永6年、黒船来航の年だ!)、ルキーニの銃弾に倒れる1998年(明治31年である)まで45年間を休憩25分を入れて3時間10分に収めてしまう脚本は相当の力技である。ハンガリーの自治独立を求める民主運動が、半面、20世紀のナチズムにつながってゆくことを示す演出も巧い。ハーケンクロイツの旗の使い方は、帝劇ミュージカルとしては相当「過激」と言える。ダブルキャストのために二回見たが、二度ともこの場面では満場しんとなった。見たのがたまたま、難民問題でイギリスがEU離脱を決めたすぐ後だった、という現実がそうさせた一面もあるが。

というわけで、従来この作品にもうひとつ興味を感じなかった私が、これだけ字数を費やして書くこととなった。

●OSK

今年もOSKの東京公演が新橋演舞場で4日間だが実現した。ダンス一本やりの純粋なレビューはいまやOSKだけ、その存在はますます貴重である。

前にも書いたが、なまじな物語や芝居の要素のない、ひたすら踊り踊り踊り、というレビューの哀歓が何とも言えない。舞台はただただ華やかに、踊り手たちはひたすら闊達に、舞台面も(物語のために、あるいは演技のために)渋滞することなく、次から次へと変転する。簡単な筋のようなものはあってもあくまで踊りの展開のための、いわば扇の骨みたいなもので、それが前面に出てくることはない。ここが肝心なところで、物語が前に出て「ドラマ」になってしまっては、もうそれはレビューではない。(宝塚はその道を歩んだわけだが。)

ラインダンスというのはその極致であって、今度もロケットガールズが飛び出してきてずらりと並んで脚を上げ下げするのを見ているだけで「感動」する。乙女の姿しばし留めむ、と僧正遍照ならずとも歌に詠みたくなる。「無常」ということをこれ以上実感する機会は、我々の日常の中にそうめったにあるものではない。かつてのラインダンス全盛のころは、SKDや日劇ダンシングチームなど、東京にもいずれ劣らぬチームが覇を競っていたものだが、いまや年に一度のOSK公演でしか見ることが叶わなくなってしまった。

(昭和32年7月封切りの松竹映画『抱かれた花嫁』という浅草を舞台にした映画は、この年始まったシネマスコープと称する横長のワイドスクリーンに全盛期のSKDのラインダンスが何度も映るのが壮観だった。松竹蒲田以来の珍名優日守新一が、田谷力三を思わせる往年の浅草オペラの名歌手の役で余人を以て代えがたい存在感を見せるなど、いまは語る人もない知られざる傑作で、いずれBC級映画名鑑に登場させるつもりでいる。)

●東宝現代劇とは、かつて菊田一夫が創設した日比谷の芸術座で数々の舞台を、脇役として支えてきたいわば座付きの俳優たちの集団である。この人たちがいなければ、『がめつい奴』も『放浪記』も、その他の数々の名舞台もなかったのだ。だが芸術座がシアター・クリエに「転生」して以来、この人たちが腕を振るうべき場は失われ、年に一度、地道に続けているこの公演が、その存在を示すほとんど唯一の場となってしまった。こういう芝居、こういう芸が、ついこの間までは当たり前のようにあったのだということを、その舞台を見れば今更のように思わされる。

今回は座のメンバーであり作者としても実績を持つ横澤祐一作の『坂のない街』。三遊亭圓朝の不肖の子として知る人ぞ知る出淵朝太郎の妻と、関東大震災の折56歳で消息を絶ったとされる朝太郎の先妻の子が、昭和30年代の東京に生きていた、という「ありうべき話」を時代の変転の中に展開する「現代の人情話」としてよく仕上がっていて、東宝現代劇健在をアピールするに足る出来と言っていい。冒頭、横澤みずから圓朝役で語って見せるのがなかなか堂に入っている。加藤武亡き今、こういう芸当ができるのは、それだけでも貴重な存在というべきだろう。

●毎夏楽しみにしている新橋演舞場の松竹新喜劇は藤山寛美27回忌追善。と言っても、藤山直美の出演はなく、当代渋谷天外と藤山扇治郎の二人で持ち切るという新喜劇水入らずに水谷八重子が客演するという体勢である。開幕劇の茂林寺文福作の『愛の設計図』など、毎度ながらこの作者のお笑い人情喜劇には感服させられるが、『宝の入船』とか『夜明けのスモッグ』となると、扇治郎がまだ少々荷が重いということもあるが、作そのものの賞味期限も気にならなくもない。『夜明けのスモッグ』は新喜劇十八番の内でもあり、もう少し期待していたのだが、時代との齟齬がひっかかる。昭和26年作の『愛の設計図』が、脚本に手を入れて現代に設定を変えてもびくともしないのを思えば、十八番という角書に捉われず改修手術が必要である。

館直志の傑作『はるかなり道頓堀』で満足を得るが、『愛の設計図』で、女子事務員の醸し出す雰囲気や江口直弥の幹部社員の背広の着こなし(ちょっと手が短い感じ)など、もうそれだけで大阪人種以外の何物でもない空気が漂う。これこそが新喜劇を支える財産なのだ。小島慶四郎が出てきて随分歳を取ったのにびっくりするが、セリフが危ういようでちゃんと辻褄を合わせる芸など、腕に歳を取らせてはいない。

●その他、サンシャイン劇場の『グレート・ギャッツビー』(脚本がよくできている)、シアター・クリエの『ジャージー・ボーイズ』(なかなか見せた。ビートルズのことばかり今どきのマスコミは言うが、その前にこうしたアメリカ産の音楽が流れ込んできて日本人の感性を「洗脳」?していたことを知るべきである)、それぞれ悪くなかった。

『マイファレディ』のダブルキャストは、演技の巧拙はともかく、貴婦人イライザ・ドゥーリトル実ㇵ花売り娘イライザ、という転身の要諦をよりよく踏まえていた分、霧矢大夢の方が私としては好みである。

●新国立の別役実作『月・こうこう、風・そうそう』はカーテンコール一回だけで失礼させてもらった。通路に近い席だったので幸いだった。「サッサと逃げるはロシアの兵、死んでも尽すは日本の兵」というお手玉の数え唄が昔あったが、この場合私はロシアの兵隊式だった。近年私は、このカーテンコールなるものがだんだん、いや、ますます、苦手になってきた。せいぜい三回まででお終いにしてもらいたいと思う。歌舞伎にはカーテンコールのないのが実によき習慣である。(往年の名ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティは狷介な皮肉屋で、日本の聴衆は常に一日のプログラムの最後の曲が一番気に入るらしい、と言ったそうだと太宰治が書いていたのを思い出す。)

●歌舞伎座は、海老蔵・猿之助という二枚看板でそれぞれの心意気が感じられる具合がよかった。『荒川の佐吉』の海老蔵が成川郷右衛門で出たのなど、その好例である。

海老蔵・猿之助に加えてもう一枚の注目の駒、中車が、『柳影澤螢火』の将軍綱吉役でアル中の中年めいた感じが、なるほどこういうやり方もあるかと思わせたが、筋書の出演者の弁を読むと「若く純粋で世間知らずゆえ常に誰かに頼っている、という方向で演じさせていただければと思っています」と言っている。おやおやと思った。そうだとすれば、あの演技は何なのだろう。新聞にも書いたが、初演のとき先代中車(まだ健在だったのだ)がやった飲んだくれの変なおじさん曽根権太夫を当代で見たかった。あれなら、現代劇俳優香川照之として培ってきた性格俳優ぶりを新歌舞伎の演技として仕活かすことも可能だったろう。それにつけても、歌舞伎俳優市川中車として既に3年、いつも安全運転ばかりでなく、そろそろ、歌舞伎役者としてより大きくなるための冒険をしていいのではあるまいか。昨夏だったか、海老蔵の与三郎に多左衛門を付き合ったが、何故蝙蝠安に挑戦しなかったのだろう。失敗したって恥ではない。お付き合いに多左衛門をして無難につとめたところで、血肉とはならない。あれは海千山千、いろんな役をつとめたベテランがさらりとやって貫録を見せる役だ。今月の相政にしてもそうだ。配役の都合もあろうがいまの中車がする役ではない。少年老いやすし、中年ならなおのこと、一寸の光陰も無駄にできない。うかうかしていると、やがて、中車という変わった経歴の歌舞伎役者がいたっけ、などということにもなりかねませんぞ。

ところでこれも新聞にも書いたが、尾上右近の『柳影』のおさめ、米吉の『荒川の佐吉』のお八重が、すっかり芸が大人になってオッと思わせる。

●国立鑑賞教室の『卅三間堂棟由来』はやっただけの甲斐も価値もあった。魁春はその実力を示したし、どうかと思った平太郎の弥十郎も、やはり大和屋の家には和事の血が流れているのを思わせる好演だった。いかつい体だからといって、決して役違いではない。秀調の進ノ蔵人はまさにその大和屋の和事の味を見せる。この人、もう少し、自分の値打ちを知ってよいのだ。歌女之丞、橘太郎と実力者が揃い、地味だが質実な実のある舞台で、少なくとも私の見た日、高校生の団体もじっと舞台に見入っていたのが印象的だった。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です