随談第303回 現代劇『桜姫』

これは劇評のつもりではない。だから作品の良し悪しや、作品として成功か失敗かというようなことは問わない。私からすれば、この作についての関心は、ひとえに勘三郎にとってこの作品が、またこの作品に出演することがどういう意味をもつのか、ということに尽きる。かなりの忍耐を以って最後まで見続けながら、私はそのことだけを問うていたようなものだった。

歌舞伎の作品を、現代劇の作者にまったくの現代劇として書いてもらって、それをやってみようと考えているということを、勘三郎自身から聞いたのは、去年の一月のことだった。串田和美との仕事、野田秀樹との仕事と突き進んできた勘三郎が、もうひとつ先へ突き出ようとしている、という風に、私はその話を受け止めた。具体的にどういう格好になるのか、その時点で勘三郎がどういうイメージを思い描いていたのかまでは、判らなかった。そこまで聞き出すだけの用意が、こちらになかったせいでもある。でもまあ、何かこれまでになかったものを生み出そうとしている、その意欲は間違なく伝わってきた。それが、これだったのか。

プログラムには、作・四世鶴屋南北、脚本・長塚圭史とあるが、私にはむしろ、鶴屋南北の作に想を得た長塚圭史の作、「鶴屋南北原作より」とでもした方がふさわしいように思えた。「原作が歌舞伎だからって皆さん質問に来たりされますがとんでもない! とっくに歌舞伎の手を離れてますよ」と勘三郎自身、プログラムで語っている通りである。「清玄阿闍梨改始於南米版」(せいげんあじゃり・あらためなおし・なんべいばん、と読むのだそうだ)という副題のようなものがついているが、この辺に、はじめの発想が尾てい骨のように残滓を留めているのだともいえる。言ってしまえば、もう、これ、取ってしまってもいいのではあるまいか?

7時に始まって、途中15分程度の休憩を含めて三時間余。始まると、セルゲイという名前になっている清玄が、キリストのように大きな十字架を背負って歩く場面や、残月と長浦と思われる二人の場面が原作よりはるかに長々と続く。勘三郎の役はゴンザレス、即ち権助なのだが、ところが、待てども待てども登場しない。第一幕には出ないのかと思いかけたところで、ようやく登場したが、さほど活躍することもなく終わってしまう。(正直に告白すると、勘三郎はだまされてダシに使われたのか?と、ほんの一瞬だが、邪推の念が頭をかすめたっけ。)まあ、大詰に腕のふるいどころはあるのだが、それにしても、この役、勘三郎が出ているから、まあ歌舞伎と縁がつながっているようなもので、別に勘三郎でなければならないという役とも思われない。勘三郎の演技は、もちろん、巧いものではある。が、役自体は歌舞伎とは無縁の他の誰がやったって、一向に差支えはなさそうだ。勘三郎の言う通り「とっくに歌舞伎の手を離れている」わけだ。とすると、勘三郎にとって、この作品に出演することは、どういう意味があったのだろう? この役と取っ組んで、何か、これまでにないものを掴んだ、というようなことでもあったろうか? それなら、それでいいのだが、見たところ、それほどまでのものがあったようにも思われない。

思うに長塚圭史という作者は、真面目で誠実な作者なのだろう。清玄に十字架を背負わせて永い旅を続けさせる場面には、ある種の迫力があるが、こうした観念をぐりぐりとこねくり回すところに、良くも悪くも、この作者の関心の中核があるのだと思われる。そういう作者が、誠実に南北の原作を読み、四つに組んで格闘した結果がこの脚本なのであろうことは、想像がつく。せっかく勘三郎が演じるゴンザレスが活躍する場面が少なくなってしまったのも、あまりに正直に、自分の関心の深いテーマと取り組んだ結果なのだろう。

もちろん、実験だから成功不成功はやってみなければわからない。しかし、仮に失敗に終ったとしても、やってみただけの意義はなければならない。その点で、これはどういうことになるのだろう?

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