随談第307回 新国立劇場『鵺』

三津五郎が出演する新国立の坂手洋二作『鵺』を見た。先月は勘三郎に引かれて現代劇バージョンの『桜姫』を見て、案に相違の結果にがっかりしたが、こんどもまた、あまり感心するわけにはいかない。勘三郎にせよ三津五郎にせよ、いま最も盛りの季節にいるふたりが、いろいろな試みに挑戦してみようという意欲は壮とすべきだが、せっかく取り組もうとする作がこれでは、応援し期待するこちらも、不完全燃焼限りもない。企画や、出演を決意する段階ではまだ脚本は出来ていないのだろうから仕方がないといえばそれまでだが、せっかく、客席から切歯扼腕するしかないこちらとしては、勘三郎や三津五郎があたら才能とエネルギーを無駄遣いさせられているように見えて仕方がない。やって甲斐ある失敗なら結構だが、やっても甲斐ないことに精力を消費するのは、見るだに切ない。作のつまらなさは措くとしても、勘三郎にせよ三津五郎にせよ、これらに出演したことで、何か得るものがあっただろうか。少なくとも客席からみる演技の上では、どうもそうは思われない。

『鵺』は、例の『平家物語』の源三位頼政の退治した猿と狸と虎と蛇が合体した怪物をモチーフに、能の同名の作を書替えの典拠として、「現代能楽集」と銘が打ってある。と聞けば、それなりの期待を抱いても不思議はないが、現代と過去の重ね方が散漫で、説得力が弱い。さまざまな矛盾を抱え込んだ人間の状況や人間そのものを「鵺」的な状況、「鵺」的な存在として捉え、天皇制の問題だの何だのを心棒か団子の串のように貫いてみせるというその構想は理解できる。だが、そこに寄せ集められたモチーフが、思いつきといっては悪いが、作者が考えたであろう程には必然性が感じられない。寄席でよくやる「音曲吹寄せ」ではないが、「鵺」という一点で重ね合わされるものを吹寄せただけ、というように見える。大体、人間と言う存在そのものが「鵺」的な存在であり、あなたもわたしもその意味ではみんな「鵺」なのだ、ということは現代人にとっての常識であって、この戯曲に吹寄せられた程度の「鵺」的状況は、別に、何かをわれわれに気づかせたり、ショックを与えたりするほどのものとも思われない。

第一部の時代劇の部分で、鎧をつけ烏帽子をかぶった武者姿で登場する三津五郎は、そのたたずまいといい、朗々としたセリフといい、かくもあらんというだけのものを見せるが、三津五郎としては当然持てる力を発揮したというまでだろう。つまり、特別出演としてこの部分だけの出演なら、それだけの存在感を示してさすが、という評価もあり得るが、その後の、復員兵になったり現代の企業マンになったりという部分に、三津五郎なりの損境地開拓はあったのだろうか?

それにしても、いつも思うのは、新国立劇場としては、出演者をどういう基準で選ぶのだろう? 今度の四人の出演者の中に、セリフをろくに言えていない俳優がいる。はじめの時代劇の部分など、鎧武者になってのセリフが何を言っているのかまるで聞き取れない。最後のベトナム青年の片言みたいな日本語が一番それらしかったというのは、ほめていいのかどうか? 迷わざるを得ない。文学座なら文学座の公演だったら、座員という限定された中から選ぶのだから、適任者不足を次善三善の配役で我慢するということも、まあ、あり得るだろう。だが、新国立の場合は・・・。

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