随談第308回 今月の(やや強引な)お奨め

その一。海老蔵の『海神別荘』の公子。とりわけ終盤の、そして眼目の、玉三郎の美女との対話のセリフ。人間界の愚かさを嘲笑し、驕慢と独善と、同時に寛大さと優しさと、無知と理解と、相反するものを平然と同居させている竜宮城(彼、あの乙姫様の弟なのだ!)の公子というキャラクターに、およそ海老蔵ほどふさわしい役者は、過去をさかのぼってもいないだろう。私の見た日、この場面は満場固唾を呑んで聴き入ったかの如く、水を打ったような静けさだった。やがて緞帳が下りてくると、張り詰めたような拍手が降ってきた。

そもそも、じっくりと人の話を聞くという愉しさ、喜び、快さを、現代人が忘れてしまってから久しい。名人の噺に固唾を呑んで聴き入って、サゲを聞いてからどよめきと共にほっと我に返るという、かつての落語会で時に覚えた醍醐味を、しばらく忘れていたような気が私自身している。あれは何とも、いい気分なものだった。『海神別荘』の幕切れの拍手を聞きながら、私はそのことを思い出していた。セリフ劇として、海老蔵と玉三郎の対話は、今月といわず近頃の演劇界での白眉と言ってよい。

鏡花の魅力はつまるところ言葉である。玉三郎の舞台俳優としての最大の功績は、もしかすると鏡花の言葉を肉声として魅力的に聞かせた最初の役者であることかも知れず、それは『天守物語』を見れば、いや聞けば、よくわかるが、それとはちょっと意味合いが異なるにせよ、セリフを聞かせる劇としてこれだけのレベルで演じたと言う意味で、こんどの『海神別荘』は上演史上ベストといってもいい。

その二。梅枝の『藤娘』。こちらはまさか上演史上最高というわけではない。しかし、やや初物買いの意味合いも含めて、これこそまさに「お奨め品」である。まだ手付かずの処女峰を征服する登山家の気分が味わえるかもしれない。

国立劇場の鑑賞教室の演目に舞踊が選ばれたのはもしかするとはじめてかもしれないが、梅枝にしてみればそういう機会なればこそ巡ってきたチャンスだったといえる。私としても密かに期待するところがあったのだが、果たして、予期に勝る上等なものである。「上品」と書いて「じょうぼん」と読む。清らなる上品。そこが値打ちであり、それは点数などには換算出来ない性質のものだ。もちろんまだ幼さの残る花なら莟だが、しかしいまそのときにしかない美しさという意味でなら、梅枝のこの踊りは極上品である。その清楚さ。文字通りの意味でのORTHODOXYの持つ端正の美。それを守り通す意志の勁さ。幕切れの余韻の美しさに至っては、いま既に、どこの誰と比べてもヒケを取るまい。

じつはつい先月末、移転新築に伴って開場した新しい日経ホールの杮落しで玉三郎の踊る『藤娘』を見た。まさに豊潤の極みの『藤娘』で、その微醺に心地よく酔ったが、時分の花と誠の花と、短時日の内にふたつの素晴らしい『藤娘』に巡りあえたのは仕合せここに尽きるといってもよい。

それにしても、梅枝のあの(何と表現すればいいのだろう)玲瓏な肌をした長い顔の、何と曽祖父の三代目時蔵によく似ていることだろう。まだ自分でその美しさをどう有効に使えばいいかも知らないナイーヴさだが、やがてよい年配になり芸も実った時、その古典美は、ちょっと類のないものになる筈だ。

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