随談第312回 「田之助に聞く会」余燼

やや旧聞めいてしまったが、予告欄に出しておいた「澤村田之助に聞く会」が、今月二日、行なわれた。いまのような装いになる前の『演劇界』に、新世紀第一年の四月から最終号まで六年間、『世紀を超えて』という題で連載していた自伝に、言い足りないところ、こちらからすれば聞き足りないところを補おうというのが趣旨だったが、ここでは、その前後の時間に控え室で田之助氏と交わした、ひとときの雑談の話をしよう。

別にまとまった打ち合わせをしたわけではない。一時間の余も早めに到着した田之助氏が、着替えをしたり何やかやの合間に、同じ控え室にいた私や、神山彰・児玉竜一氏などと、野球の話だの相撲の話だの、あれこれの雑談をする。その事前の雑談に身が入り過ぎて、本番がすこし割を食ったかもしれない。

とにかく、打てば響くようなやりとりである。ツーといえばカーというやりとりがごく自然に運ぶほど、愉快なことはない。たとえば先場所の朝青龍の櫓投げの話題が出る。潮錦がやりましたっけ、と神山氏が言う。櫓投げなら何といっても羽島山だと私が言う。よくご存知、と田之助氏が大喜びする。羽島山は一場所の内に何番も櫓投げで勝ったという話になる。横綱や大関が相手だろうと平気で櫓投げという大技を仕掛ける豪快な力士だった。岐阜の羽島の出身で、だから私は、東海道新幹線に岐阜羽島という駅が大物政治家の慫慂で田圃の中にできるはるか前から、この地名を知っていた。田之助氏は、小学校に上がる前から、幕下以上の全力士の四股名から本名、得意技から出身地まで暗唱していたそうだが、それにははるかに及ばないけれど、私も小学生時代は、十両幕内の全力士や歴代横綱と優勝力士の名前ぐらいはそらで言えた。

『世紀を超えて』をお読みになった人なら覚えていようが、田之助氏は、疎開先の伊豆の伊東でまったく普通の生徒として中学・高校生活を送り、相撲は学校に働きかけて本格の土俵を作り、時の大関東富士に土俵開きに来てもらい、野球は準硬式のボールでプレイをしたという経歴の持主である。裸になって廻しを締めて、現役の大関の胸にぶつかったことのある歌舞伎俳優なんて、しかも女方なんて、他にいる筈もない。

野球の話になる。話のはずみに関根潤三が話題に出る。テレビの野球解説でお馴染みのあの人である。法政のエースだったが、プロ野球が二リーグ制になった最初の年に新人として近鉄パールズに入ったのだが、同時に、同じ六大学から立教のエースだった五井も近鉄に入団したという話になる。こんな話題がすらすら出る人というのは、滅多に出会えるものではない。当時の『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったかのグラビアに、五井・関根両投手が仲良く並んだ写真のキャプションに「昨日の敵は今日の友」と書いてあって、私はこの言葉をこのとき覚えたのである。

(五井投手といえば、その二リーグ制最初の年のシーズン開幕間もない一九五〇年の三月三十日、後楽園球場に近鉄・毎日戦を見に行った確かな記憶がある。小学校三年生の春休みだ。荒れ球の五井は、当時はまだビーンボールなどという言葉はなかったが、打者がのけぞるような球を投げて、毎日オリオンズの強打者たちを相手にシャットアウト勝ちしてしまった。この年、毎日は、七色の球を投げると言われた名投手若林や、別当、土井垣、本堂といった、前年ダイナマイト打線と異名を取った阪神から主力選手を大量に引抜いたため、この日も、バカバヤシーとか弁当ベントウとか、しきりに野次が飛んでいたのを覚えている。私に言わせれば、阪神タイガースの苦難は、実にこのときから始まっていまなお続いているのだ。)

・・・というような話を、田之助氏と控え室で楽しんだ私は、すっかりそちらで満足してしまって、肝心の本番がややおろそかになってしまったのではないかと反省している。六代目菊五郎に可愛がられた子役時代の後、自分の意志で小学校六年生から勉強をやり直し、中学高校をまったく普通の生徒として少年時代を過ごしたという田之助氏には、ある特別なバランス感覚が備わっているようだ。

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