随談第316回 三津五郎山帰り奉納

三津五郎が、三代目が初演したいわば家の芸である舞踊の『山帰り』を、その舞台である大山阿夫利神社に奉納するという催しがあったので、こちらもついでの大山参りも兼ねて行って来た。新宿から小田急で伊勢原まで一時間、それからバスで30分という近間なのが、却って盲点となってまだ行ったことがないので、当然、その興味もある。

『山帰り』という踊りは、本興行ではごく稀にしか出ないが、清元の地で、粋でイナセでさっくりとした小品で、いかにも三津五郎の踊りらしい。山帰りの「山」というのが、おのずから大山のことを指しているという暗黙の了解が成立したほど、大山参りというのが、殊に江戸の鳶や職人といった連中にとっては一種のお定まりの行事だった。

林家正蔵も一緒に奉納落語として『大山詣り』を一席口演したのは、三津五郎から誘ったのだそうだが、『山帰り』だけでは短いからということもあるだろうが、なかなかいいアイデアである。落語の『大山詣り』も参詣の帰りがけの話しという意味では、題材としては共通している。お参りは建て前、お楽しみは帰り道で、まっすぐ江戸へ帰らないで、江ノ島見物をしたり寄り道をして帰る。落語で熊公が大暴れの果てに頭を剃られるのは神奈川の宿での出来事だし、『山帰り』でお土産の麦藁のラッパを吹くのは開港場の横浜名物だというのは、今回の番組のひとつ、三津五郎、正蔵に阿夫利神社の宮司、寄席文字の書家の橘右之吉氏の座談会で知った。(してみると、三代目の頃はまだ横浜は開港していないはずだから、ラッパは初演のときにはなかったことになる。)

催しだけ見るのなら午後から出かけても充分なのだが、お参りも兼ねているからちょっぴり早起きして、昼前にはついた。(途中、バスで太田道灌の墓所というのを通り過ぎた。)会場の能楽堂は、門前町の入口付近だが、さらに奥まで歩いてからケーブルカーで下社まで登ると、標高六百メートルとあって、相模湾から三浦半島、その手前に江ノ島が可愛らしく見える。本社は大山の頂上、標高千二百メートルにあるというから、ハイキングのこしらえでないと到底辿り付けない。戻りがけ、程よきところで昼飯をと物色していると、向こうから上って来るやや物々しげなお供に囲まれた上品な御婦人に、沿道から中高年の女性たちが「テレビで見るよりきれい!」と声を掛けている。悠然と振り返って「ありがとう」とにっこりほほえんだ件の御婦人を見ると、高円宮妃殿下で、三津五郎をご覧になりにきたのだった。それにしても、妃殿下に向かって「テレビで見るよりきれいよ」という掛け声が面白い。

認識を改めたのは、その昼食といい(鹿の刺身というのを取ってみたらなかなか美味い。なるほど、むかし殿様の食べ物だっただけのことがある。この辺り、鹿が随分多いらしい)

別な店でひと休みして注文したシャーベットといい、なかなかのレベルであって、門前町の風情も、さすがに由緒ありげなたたずまいだし、想像していたよりはるかに懐の深さを感じさせる。かなりの数ある旅宿に先導師という看板が掛かっているのは、講中を先導する、つまり伊勢講だったら御師に相当するのだろう。例の『伊勢音頭』の福岡貢と同業者なわけで、中には立派な門柱を立てた何様のお住まいかと見紛うようなのもある。なるほど、貢がまるで武士かと見紛うような大きな態度でいるのがわかる。

開場を待つ間に、すぐそばに小体だが趣のある住まいがあったので、見ると、「元緒方竹虎別邸」と小さな札が掲げてある。良質の保守政治家として知られた人物らしい、一面が偲ばれるようなよきたたずまいである。能楽堂も本格的ななかなかのもので、来月には観世流の人たちで薪能の催しがあるらしい。もちろん屋外だから、見所は野天で、今日のために特設スタンドまで作ってある。ざっと見て、見物は千人は優に越えていただろう。昨夜の雨で埃っぽさは拭われ、日盛りの暑さも開演の4時ともなると夕風が吹き出して程よく涼しく、5時をまわっていよいよお目当ての『山帰り』の始まる頃には、やや暮れなずんで舞台の照明が美しい。

三津五郎にとっても襲名以来の宿願だったそうだが、彼ひと共に、よき一日だった。

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