随談第318回 ジーンズ随談

三月に十二指腸潰瘍のために20日間入院した話は前に書いたが、はじめ8日間点滴だけ、その後も、重湯からはじまって五分粥、ようやく普通の粥という病院生活のおかげでざっと5キロ余り、減量することができた。別に減量しようと思っていたわけではないが、いざ体が軽くなってみると、これが思いの外に気持がいい。ちょいとした発見といってもいいだけの快感がある。それに伴って、当然、ウェストも細くなる。ざっと5センチ、スリムになった。(つまり1キロで1センチということか?)これも気持ちがいい。腹の出具合もさることながら、腰から背にかけてすっきりした感じがするのが、これまた思いの外に気持がいい。このままキープしてやろうと思い立った。

そこで、待てよと思った。以前はいていたジーンズのことを思い出したのだ。いつの頃からか、きつきつになって、そのままはかずにいたのを、久しぶりにはいてみようか、多分大丈夫だろうと、戸棚の奥から引っ張り出した。見事にはけた。ざっと十年ぶりぐらいになるのだろうか。つまり十年前には、胴回りはいまぐらいのものだったということになる。はいて外出する。悪くない。もうちょっと色合いの違うのも欲しくなって、一本新調した。もう、病膏肓になる。

さてそうなってみて、改めて世間を見回すと、世はまったくジーンズの世の中であることに気がつく。電車に乗る。座席に坐って向かい側を見やると、仮に七人掛けとして、まず五人まではジーンズをはいている。老若男女を問わない。それまでだって気がつかなかったわけでもないが、自分もジーンズ党の一員になってみて、改めて、その多さを実感する。これが政党だったら、ジーンズ党が政権を取るのはいともたやすいことに違いない。

若い連中に多いのは当たり前のことで特におもしろくもないが、中高年の男女、高齢者と思われる人にこれほど多いのは、一考に値いしそうである。

値段の安さということも、もちろんある。何万円もするのはこの際別として、つまらないズボン一本買う値段で、ジーンズならもっとマシなのが買える。しかし、それだけではないだろう。ひとつ思いつくのは、ジーンズをはくことで年齢不詳の人間になれるということである。単に若く見えるということだけではあるまい。年齢不詳、という曖昧さを手に入れる。そこに、えもいわれぬ快感がある。喜びがある。

もちろんそれには、ジーンズとはもともと若者のものだったという、社会が暗黙のうちに了解している前提がある。社会全体がもっている記憶といってもいい。とにかく、この前提がまず確固としてあることが肝心である。まず正があって、反がはじめてあり得るように。若者もすなるジーンズというものをオジサンオバサンもはいてみた。オジイサンオバアサンもはいてみた。若くなれた、ような気がした。みんなではけばこわくない。いま擦れ違ったひと、向かい側の席に坐っているひと、みんながはいている。本当には若くはなれないが、若さを装うことならできる。

谷崎潤一郎の小説に、夜な夜な、女性の着物を着て御高祖頭巾をかぶって外出する男の話がある。女装愛好者の話と取るより、別の自分を装う喜びを告白する話と取った方が面白い。しかしまさか、そこまでする勇気はないし、気も回らないから、もっとささやかな、もうひとつの、あり得るかも知れない自分にな(ったつもりにな)るために、ジーンズをはく。性は簡単には偽れないが、年齢なら、誰でも多少は偽った気になれる。ここで大事なのは、七人の内五人は、同じくジーンズをはいている、群衆の中のひとりになれるということである。こうして世の中の七人中五人の人々は、何千円かの出資で(近頃は800円台などというのもあるらしいが)、ごくかるーく人をも身をも偽りながら、今日も街を歩いているのだ。

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