随談第322回 新国立ヘンリー六世

新国立劇場の『ヘンリー六世』三部作を一日通しで見た。11時開演で第三部の終演が午後10時20分、『忠臣蔵』を大序から討入りまで、九段目も一挙に見るようなものだ。 午前11時から一日がかりなど、歌舞伎ではいつもやっていることで珍しくもないはずなのだが、尾てい骨が痛くなったり、疲労の度が強いのはなぜだろう? 尾てい骨の方は椅子が歌舞伎座より軟らかなためだろうが、疲労度の方は、歌舞伎とシェイクスピアではリズムの生理が違うためだろうか? もっとも、決して不快な疲労ではない。

なかなか面白かった。久しぶりでシェイクスピアらしいシェイクスピアを見たような気がする。なまじ有名作だと演出家がいじくりまわすのが当たり前のようになってしまい、大概、事を壊す結果に終ることが多いのに比べ、こういう非有名作は比較的素直にやるのが却っていい。それと、これは私の好みだが、いわゆる四大悲劇などより歴史劇の方にこそシェイクスピアらしい面白さがある。善も悪も、偉人も凡人も、身分ある者も無名の者も、すべてを等距離に置く相対的人間観で見る人間模様が、歴史劇の場合の方がドラスティックに出る。シェイクスピアの神髄はむしろ歴史劇にこそある。登場人物一人ひとりについて見れば悲劇だが、トータルにみるとむしろ喜劇にも見えるところが、まさに「神の喜劇」である。(四大悲劇を深刻がって、やたらに持ち上げすぎる19世紀以来の事大主義にいまだに捉われているのは、不思議な話だ。)

俳優たちもいかにも乗りがよくて、なかなかよくやっている。ヘンリー六世の浦井健治は、カマトト風というか中性風もしくは両性具有風というか、下手うまみたいなところが面白い。王よりも羊飼いの生活に人間の幸福を見るというセリフなど、なかなか聞かせた。優柔なダメ男が却って人間の真実に目覚めかけるというのは、つまり王にして道化の視点をももっているかのようでもある。もうひとり、後のリチャード三世になる岡本健一が、よく動けて情感もあってなかなかの好演なのと、ジャンヌ・ダルクとエドワード皇太子二役をつとめるソニンが特異なキャラを生かして印象的だ。ベテランではトールボットの木場勝巳(もっともこれは儲け役だ)とウィンチェスター司教になる勝部演之の演技に格がある。

さっき、なまじ有名作でないだけ比較的素直にやるのがいいと書いたが、鵜山仁演出は実はけっこういじくっている。シェイクスピアというと最近は現代服でやる方が当たり前になってしまったが、鵜山演出は兵士の服装などから察するに、第一部は第一次、第二部は第二次世界大戦頃、第三部はベトナム戦争頃をベースにしているかにも見えるが、第三部に至ると、リチャードの独白のバックに「オーバー・ザ・レインボウ」を流したり、はては昔のビクターの商標みたいな大きな喇叭のついた蓄音機でレコード(CDではない)をかけたり、エドワード王が迷彩服のベストにジーンズをはいていたりする。(ベテラン陣が主力を占める第一部に比べ、登場人物が世代交代する第三部になると俄かに役者も安くなった感じがするのも、演出の計算だろうか?)シェイクスピアが百年戦争や薔薇戦争の時代を芝居に書いたタイムスパンから考えたのかと想像するが、そのくせ、フランス王ルイが昔の赤毛物の王様みたいな格好で出たり、オヤオヤという感じになる。マーガレットが戦場に出るときのスカート(といっていいのか?)が大正から昭和ひと桁時代に流行った銘仙の腰巻みたいに見えるのは、まさか第一次大戦時代に歩調を合わせたわけではないだろうが。

昔みたいに「時代物」だからというのでトランプのキングやジャックみたいな格好をする必要はないが、(いつか前進座がやった『ヴェニスの商人』は今どき稀な昔ながらの赤毛物流でナツカシクもおかしかったが)、一方でナントカ伯だのカントカ公だのと言っているのだから、あまり時代を限定するような格好をするのもかえって観客を途惑わせる。(それが狙いだというのかも知れないが。)演出者の解釈なるものがあんまり見え透いてしまうと、せっかくの美人が、X線写真で骸骨を見せられるようで、味気ない思いをさせられる結果になることも少なくない。演出があんまりのさばると、絵解きごっこにつき合わされることになり、迷惑する。あんたひとりのシェイクスピアじゃないんだよと言いたくなる。(その意味では今回のは、まあいいか、といったところか。)少なくとも、現代服でやらないと現代的ではないと、もし思い込んでいるとしたら、却って公式主義に捉われていることになるのではあるまいか?

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