随談第329回 歌舞伎座初春芝居三絶つまみ食い

ラストイヤーの正月、歌舞伎座を見ながら心に浮かんだよしなしごとを書きつければ・・・

その一。團十郎の弁慶。これぞまさしく歌舞伎十八番の弁慶である。すぐれた弁慶は他にもあるが、歌舞伎十八番の弁慶、という意味では、今回の團十郎をもって極めをつけてもいい。荒事を踏まえた弁慶であること。計算作意を感じさせない弁慶であること。ただただひたすらに弁慶であることだけを念じて努めた弁慶であること。

昨秋の吉右衛門の弁慶も当代ですぐれた弁慶であったが、その仁、その芸質芸風からいって、どうしても実事役者の弁慶である。つまりそれだけ近代的であり、現代人のイメージに最も近い弁慶であるといえる。智勇兼備の理想的リーダーとしての弁慶。すなわちそれは、大星由良之助のイメージと重なり合う。そういう意味で、現代の観客にもっとも納得しやすい弁慶であるといえる。もちろん、それはそれでよろしい。

だがやはり、歌舞伎十八番としての弁慶には歌舞伎の原初的なものを求めたい気持が、私のどこかにある。團十郎といえども、これまでそれほど、強くそのことを思わせたことはなかった。思うに、あの業病を乗り越えての何かが、そうさせたのに違いない。それと、読み上げといい、問答といい、セリフの明快なこと。これほど言っていることの意味がくっきりと伝わってくる弁慶も、一、二の例外をのぞいてかつて知らない。若き日、團十郎といえばセリフの難を指摘するのが劇評の常だった。今昔の感などというものではない。

過不足ない本寸法の梅玉の富樫、能楽の子方の味のする義経の勘三郎、またよかった。去年の吉右衛門のときの菊五郎の富樫もよかったが、あれは吉右衛門との均衡が理想的だったので、今度の團十郎には、今回の両名がベストであろう。

團十郎のもうひと役。勘三郎の『娘道成寺』につきあっての押戻しの荒事の見事さ。あれこそ、現代見ることの出来る限りの、荒事の神髄の顕現した姿であろう。即ち、今月の團十郎は、歌舞伎十八番の原初と到達点をふたつながら演じていることになる。

その二。吉右衛門演じる『松浦の太鼓』の何とも楽しかったこと。まさに文字どおりウェル・メイド・プレイである。これを愚劇と言う人は、よほど偏狭に凝り固まった者に違いない。三幕仕立てで起承転結が見事に備わっている作劇の巧さ。

ふと思ったのは、これはかの森繁の社長シリーズの歌舞伎版だということである。晩年の森繁はなぜかあの社長シリーズのことを語るのを好まなかったそうだが、もし事実とすれば、森繁も案外な人物だと思いたくなる。あのシリーズがあれほど受けたのは、あそこにはほとんど万古不易かとすら思われる人物たちが登場し、万古不易の人間模様が展開されるからである。それは既に「型」の域に達している。つまりあれは「現代歌舞伎」だったのだ。あの松浦侯の愛すべき暴君ぶりを見よ。森繁社長そのままではないか。宝井基角を三木のり平、大高源吾を小林桂樹、お縫を司葉子、近習頭を藤木悠にでもさせれば、見事に現代歌舞伎が現出する。

それにしても、名君と馬鹿殿様が相乗りしたような松浦侯を大乗り気、上機嫌でつとめる吉右衛門も、大人の役者になったものである。ちょっとでも照れくさがったりしたら、それこそたちまち愚劇と化してしまう。しかも保つべき品格を見事に保っている。ここらが歌舞伎役者の値打ちである。こういう芝居こそ脇が大事で(社長シリーズもそうであった如く)、梅玉の大高、芝雀のお縫、歌六の基角と適材が適所をつとめている。(もっとも、『勧進帳』のすぐ後で、ついさっき富樫だった梅玉が、頬冠りをして笹竹を担いで出てきた時は、鎌倉殿をしくじった関守が素浪人に落ちぶれて登場したようでおかしかったが。)

その三、芝翫の桜丸。何と聞いたか桜丸、で編笠を取った一瞬にすべてがある。あの瓜実顔にむきみの隈のよく映えること。おそらく絶後の桜丸であろう。即ち今生の見納め。それにしても時平の富十郎ともども初役とは! 第一の殊勲は、この企画を立案し、役を収めた製作部にあるといってもいい。聞くところに拠ると、芝翫も大張り切りとの由。流石、役者の血は眠っていなかったのだ。松王丸に幸四郎、梅王丸に吉右衛門と揃ったところはまさに超弩級、これでこそさよなら公演である。

雀右衛門休演は残念、勘三郎の『娘道成寺』はちと割を喰った形だが、当節彼ひとり孤塁を守る形となった、加役の踊る「娘」道成寺として珍重に値する。と、まずはめでたい春であったことになる。

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