随談第330回 『麦秋』あれこれ

三越劇場の新派で『麦秋』をやっているのが予想以上の好評のようで喜ばしい。二、三の新聞評を読んでも、新派の今後の路線としての可能性という観点からの評が目につく。それもわが意を得たことで、明治から昭和三十年代ごろまでの日本人、すくなくとも東京エリアに生活していた人間を演じて、最も実在感のあるのは新派であることは確かだろう。つまりテレビと洗濯機が普及し、国電中央線の車体がオレンジ色に変わったころ、卒業式で「蛍の光」や「仰げば貴し」を歌うのがまだ当たり前だった頃までの日本人の感性は、新派の演技術がカバーしてきたものとほぼ重なり合うのである。

林芙美子の絶筆となった小説を(夕刊を見て、母や姉や兄が林芙美子が死んだ、と話し合っている夏の夕暮れどきの気配を、いまもありありと思い出すことができる。新聞連載中に急死したのだった)、成瀬巳喜男監督で映画にした『めし』は、小津安二郎の『麦秋』とともに、日本映画の現代劇のなかで私が一番好きな作品だが、これが昭和26年の作である。東京を駆落ちして大阪の場末に長屋住まいをしている上原謙と原節子の夫婦の家の台所が再三出てくるのを見ると、竈があって鍋や笊を伏せたり吊るしたりしてある様子が、日本人の暮らしの様式が、基本的には黙阿弥の世話狂言とほとんど変っていないことを物語っている。つまりそれが、いまとなっては新派の領分なのである。

『麦秋』もまた、小津安二郎の映画は昭和26年の作品である。あそこに子役が二人出てくるが、小学校高学年とおぼしき年かさの方が、思うに私と同年配であろう。あの半袖シャツに半ズボン、丸坊主の頭に野球帽というスタイルが、当時の小学生の平均的な夏の身なりで、野球帽のまま学校に行く者もあれば、学帽をかぶって行く者もあった。(『サザヱさん』のカツヲは、『サザヱさん』初出の年代をベースにおいて考証すると、やや年上だろうが、彼は野球帽をかぶらない。思うに彼は運動音痴、すなわちウンチなのであろう。)

しかし今度の山田洋二脚色・演出では、時代設定を三年ずらして昭和29年に直している。思うに、テレビや電気洗濯機のはしりを登場させ、時代色を端的にわからせるための措置であろう。昭和26年九月がサンフランシスコ講和条約調印、翌27年四月に発効となって進駐軍(GHQ)が帰る。NHKがテレビ放送を始めるのがそのまた翌年だから、昭和26年では、エポックとしての時代を端的に表わせる小道具が家庭の中にないのである。つまり、『めし』も『麦秋』も、日本人の暮らしの根幹は黙阿弥の世話狂言とひと続きなのだ。

山田脚本は、終戦から九年目という時代を強く打ち出すことによって、映画ではよほど注意して(それも二度、三度とたび重ねて)見ないと気がつかない、戦争の翳が一家に落としているものを抉り出してみせる。映画では東山千栄子だった祖母の役を今度は水谷八重子がやっていて、ラジオの「尋ね人」をいつも聴いている。「尋ね人」は三十年代まで放送していたそうだが、子供だったわれわれにも強く印象に残っているのは、もう少し前である。ソ連からの最後の大量引揚げがあったのが昭和28年で、新聞が引揚者の名簿で埋め尽くされていたのを覚えている。

映画では菅井一郎だった祖父を安井昌二がやっていて、菅井とはキャラが違うが実にいいムードである。(この前の『女の一生』でもそうだった。)籐椅子に腰掛けてラジオの寄席中継で柳好の『野ざらし』を聴いている。志ん生や文楽にしたって(あるいは三代目金馬にする手もある)時代考証(!)としてはいいのだが、柳好の『野ざらし』にしたところが、山田監督の薀蓄から来るミソというものだろう。映画の『麦秋』では、原節子と淡島千景が、ラジオで歌舞伎座からの中継を聴いている場面があって、初代吉右衛門の『河内山』が聞こえてくる。(声は吉右衛門ではなく、悠玄亭玉介の声色だと聞いたが。)

別に映画と同じでなくともかまわないが、今度の瀬戸摩純もよくやっているけれども、女学校時代の友達役もふくめて、原・淡島に比べると少し幼い感じがする。が、これは仕方がないか。つまり、当時の二十代の女性の漂わせていたムードというものは、現代の若い女性にはまったくと言っていいほど、後を絶ってしまっているからだ。もしかすると、昭和20年代と昭和80年代(!)の今日、何が変わったといって、若い女性の漂わせるムードほど、変わってしまったものはないかもしれない。

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