随談第584回 十月のさまざま(訂正版)

(お詫びと訂正)冒頭の『箱根霊験記』についての記事の中で、過去の上演の年月の記載に誤りが2か所ありましたので、その個所を訂正したものを掲載します。)

役目柄の劇場巡りの範囲が大幅に広がったのに加え、種々の原稿締切、法事の準備手配等々、身辺何かと小忙しく、このブログも差し替えが間遠な状態が続いている。各座、疾うに楽日も過ぎ、打ち上げてしまった芝居の評判をするのも、出そびれた幽霊みたいで気が利かないから、今月のさまざまと題して、事件やら訃報やらさまざま取り交ぜて一席伺うこととしよう。

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10月末、片や国立演芸場、片や紀尾井ホールという小さな劇場で、素敵な演奏会を二晩続けて聞いた。国立演芸場は女義太夫の会で竹本駒之助・鶴沢津賀寿の『箱根霊験記』、紀尾井ホールは京都在住の常磐津都喜蔵師(本当はトキゾウの「キ」の字は「七十七」を一字として書く、あの字だが、実はこれは「喜」と同じ意味を表す本字なのだが、コンピュータには採録されていないと見えて変換できない。一般に略字と考えられがちなので、WINDOWS 10を作った技師もそう考え、IMEパッドにも載せなかったのであろう)が10余年来続けている常磐津の会で語った『仮名手本忠臣蔵』八段目と『本蔵下屋敷』である。駒之助は今や、文楽の太夫を含めても今聴いておくべき数少ない一人、まして今回の上演稀な貴重な曲(になってしまった)、今回聞き損ねたらチャンスはあるまいという逸品だった。冒頭不慣れが耳についた津賀寿も後段はよく弾いた。都喜蔵師また、その撥捌きのやわらかさ、少しの力みもない妙音を聞かせてくれる。名人と呼んで然るべきであろう。

(『箱根霊験記』は本来『箱根権現躄仇討』というのが本名題だが、「躄」の字を憚って、近頃はこういう呼び方をするらしい。歌舞伎での最近演は十年ほど前我當が南座で『箱根権現誉仇討』という外題で出した由だが私は見ていない。東京では昭和53年に十七代目勘三郎、歌右衛門、白鸚という大顔合わせで出したのが最後だが、実はこれはやや期待外れで、こういう小芝居種めいた狂言にはこの大家たちはあまり適任ではなかったようだ。昭和46年1月、これが東横歌舞伎最後の公演となった興行で、現・田之助の勝五郎、玉三郎の初花、孝夫の滝口上野というのと、昭和40年2月、猿之助の勝五郎、雀右衛門の初花、延若の滝口上野、竹之丞つまり富十郎の折助で出したのが、私の頭の中ではちゃんぽんになって、田之助・雀右衛門・延若・富十郎というベスト配役として記憶されている。母親役が骨の髄から大阪の役者のような中村霞仙だったのを、今回たまたま坐り合わせた神山彰氏のお陰で思い出した。)

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訃報と言えばやんごとなき際(きわ)から忘れかけていた名前までとりどりあるが、誰もが言う平凡な感想ながら、昭和の終わりということを、ビッグネームからマイナーネームまで、それぞれについて思わされた「死」がこのところ相次いだ。

前天皇の弟宮の死は、誰もが言うこととはいえ、これを以て「昭和」は完全に終止符を打たれたことを改めて痛感したという意味で、単なるニュースではなく「私事」に関わってくる死だった。亡くなるまではとりわけて関心事でもなかったにも関わらず、その報と共に、強くそれを意識することになったのは、我ながら意外だった。昭和天皇の戦後に関する事績を民間での行為を通じてほぼ完ぺきに補完した上、先ごろの当近の「玉音放送」まで、見るべきほどのことを見切った上での死であったように思われる。

岩波ホールで「木下順二没後10年」という案内を、あまり直接的な関わりを生前持たなかった私であるにも関わらず頂戴したので出かけたが、なかなか興味深い話を聞くことが出来た。1914年の生まれという。前日逝去された三笠宮が1915年生まれとの由だから、一歳違いだったわけだ。それぞれ立場は違え、本当の「戦中派」というのはこの人たちのことを言うのであろう。言うことすること、すべてが「戦争」と関わっている。

平幹さんについては、私の出る幕はいくらもない。テレビの『三匹の侍』で全国区デビューする前、初代錦之助の『親鸞』など、東映時代劇が新機軸を求めて、岩崎加根子とか河原崎長一郎とか、まだあまり手垢のついていない新劇の若手に目をつけて登用し始めた中にその顔を見つけた、というのが、せめて、語る人も比較的少ないかと思われる、数少ない私の出る幕と言えるだろう。誰しもそうであるように、全国区デビューする前の、痩せて、やや暗いイメージは、平幹氏の場合も例外ではなかったが、それも含めてイメージとしては終生、これほど変わらなかった人も珍しいとも言える。あの声、あの物の言い様、当時からああだった。そこに、この人のシャイネスがあるような気がして、そのために私は、最後まで好印象を持ち続けることが出来たと言っても過言ではない。声音と物の言い様に独特の知性が漂っていたという点、先年逝った三国連太郎と双璧であったろう。

野球界から、法政から広島に行った山本一義、慶應から巨人、さらに東映に行った渡海昇二と、しばらく耳から遠ざかっていた名前の訃報を相次いで聞いた。どちらも、私が大学に入学した時の、六大学野球でそれぞれのチームの主将だった。入学して最初に見に行った試合が慶法戦で、山本も渡海も、実物をそのとき初めて見たのだった。山本の方は、約十年後輩の山本浩二も同じ進路を辿ったもう一人の山本として、首位打者のタイトルは取らなくとも常に打撃十傑には入っていたように、地味だが実力派としてプロ球界名選手列伝の一隅に座を確保するほどの存在として全うしたが、渡海の方は、パッとした成績を残すことなくわずか4年でプロ球界から名前が消え、それから無慮半世紀余、稀に彼が主将を勤めていた秋のシーズンに繰り広げられた早慶6連戦のことが話題になる折に、ちらりと名前が出るという程度だった。渡海の名が六大学野球で知られ出したとき、野球好きでかなりの母校愛の持ち主と察しられる戸板康二さんが喜んで、「慶應に渡海屋銀平が現れた」と書いたことがあったが、肝心の銀平クンの活躍がせめて歌舞伎ファンにまで広く知られるに至らなかったために、折角の戸板さん一流のウィットもちょっといい話のネタになりそこなったのは残念だった。

同じ学年には早稲田の主将で国鉄スワローズに入ってまずまずの成績を残した徳武定之とか(はるか後年、郷ひろみの岳父として名前を聞くことになったのは思わざることだったが)、スター選手がかなりいた。のちに工学部の教授になったという東大のエース岡村が、9回裏満塁から投じた一球がデッドボールになって押し出し、負け試合になってしまったのを目の前で見たこともあった。次の学年で、大洋ホエールズに入って東大からはじめてプロ野球の投手となった新治よりも、岡村の方が名投手だったと思う。それにつけても、この年代から訃報が相次いだのには物思わずにはいられない。因みにそれは、60年安保の年である。

元羽黒岩の戸田が死んで、大鵬戦での世紀の大誤審のことが新聞の片隅にちょっとした記事になったが、確かに、あの頃の大鵬だったら、戸田とのあの一番がなかったら70連勝ぐらい行っていたかもしれない。

行司の軍配は大鵬に上がりながら物言いがついて負け、40何連勝だったかでストップとなったところが、翌日の新聞に載った写真から検査役の誤診が明らかとなり、それが元でビデオ判定が実施されるようになったという話はよく知られているが、それよりも、あの場所後大鵬は気晴らしのつもりかオーストラリアに遊びに行き、ビアホ-ルで豪快にジョッキを空けていると、その様子を見たオーストラリア人の客からビールの飲み比べの挑戦を受け、受けて立った大鵬の圧勝に終わった、という話なら、ここに紹介しておく価値があるかも知れない。ところでこの記事を受けて、朝日の「素粒子」欄だったか、カンガルー焉んぞ大鵬の志を知らんや、と書いたのは天晴れだった。こういう記事、イマドキの朝日の記者に書けるだろうか?

日本シリーズは近来稀に見る面白さだった。それぞれのリーグで、形は違うがそれぞれに劇的な形で優勝を遂げ、今年はクライマックスシリーズを蛇足と思わせたチーム同士だったのもその一因だろう。初戦二連敗して広島に歯が立たないかと思った日ハムが、一気に雪崩を打つように4連勝してしまったのが、いずれも接戦ばかりというところに、一戦一戦の機微が窺われ、素人受けも玄人好みもする、面白いゲームばかりだった。結果的には、広島は相撲で言う喜び負けの形になってしまったわけだが、目の前で日ハムの優勝が決まってもぞろぞろ帰ってしまったりしないカープファンも、敬意を表するに値するだろう。

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