随談第343回 歌舞伎座から新橋演舞場へ (よしなしごと・その3)

俄かに暑くなって書斎の窓を開け放していたら、男の大きな声が聞こえてきて、歌舞伎はもうおしまいなんだってさ、と言っている。そういえば、勘三郎がタクシーに乗ったら、歌舞伎座がなくなって三年間失業ですか、と運転手に言われたと勘太郎が今月の新橋演舞場の筋書で言っている。こういう早とちりは、歌舞伎座のさよなら公演の宣伝の薬が利き過ぎた結果ともいえるが、歌舞伎座がなくなるのだから歌舞伎もなくなるのだ、というのは、考えてみれば、一般人のごく素直な反応ともいえる。

「歌舞伎座」という名称は、120年前に歌舞伎座が出来た当時には、きっと奇妙なものであったに違いない。「甲子園球場」とはいっても「野球園」とはいわないように、固有名詞にしてはあまりにもそのものずばりでありすぎる。それが、120年の間にごく当然のように受け止められるようになって、歌舞伎座イコール歌舞伎、という観念が出来上がったわけだ。しかし仮にもし甲子園や東京ドームが向こう3年間、建替えのため閉場と聞いても、プロ野球も三年間、休業になるとは誰も考えないだろう。

閉場式から一週間余り経った5月8日は新橋演舞場のいわゆる御社日だったが、東銀座の駅で降りたときにふと思いついて、中ほどの階段から歌舞伎座の正面に上ってみた。この一週間、いろいろなものを運び出すだけでも大変な作業と聞いていたが、この日もコンテナ車が一台、停まっている。幔幕だの何だの、飾り物がすべて取り払われ、玄関口も窓も閉まり、森閑と人けのない歌舞伎座のたたずまいは、すでに廃屋と化したかのような気配に包まれていた。それは、私がはじめて目撃する、これまで見たことのない歌舞伎座の姿だった。一週間前の騒ぎが信じられない変わりようである。美しく装っていた老嬢が、入院でもして、正視しかねるような容貌を露わにしたよう、ともいえる。そういえば歌舞伎座は今年が還暦なのだった。(つまりアラ環である。)

われわれなどのしがない家でも、引越しの際、家具その他一切合財を運び出した後、住み慣れた我が家を改めて振り返って一瞬、なんともいえない寂寥の感に襲われるのは誰しも経験のあることだろうが、建物というものは、住む者がいなくなれば即ち廃屋と化すのだということが、改めて痛切に思われる。歌舞伎座も、仮にいまカメラを向けたとしても、一週間前にした同じ行為とは、まるで違う意味を持つことになるだろう。同じ感傷でも、もはや甘いものはそこにはなく、冷徹に現実を見つめる者の胸を貫く、苦味を伴う感傷である。夜、ふたたび、帰りがけに道路を隔てた向こう側から見ると、九時半というのにまだうっすらと灯りがついている。残務に取り組んでいる人たちであろう。ほどなく、板囲いが出来て解体工事が始まるのだ。

さて新橋演舞場は、櫓も立ち、この月からはいわば歌舞伎座の格を持つ劇場となったわけで、120年前なら、歌舞伎座と改称したかもしれない。「歌舞伎座」という命名法には、本来そういう意味合いもあるに違いない。すなわち、歌舞伎の代名詞としての歌舞伎座、である。勘三郎に向かって、三年間失業で大変ですねと言った運転手さんの解釈は、決して早とちりではなく、むしろ言葉の本質的な意味を射抜いているのだ。

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