随談第350回 長崎ぶらぶら節

十年余りにわたって新橋演舞場の恒例だった舟木一夫公演がなくなってしまったのは残念だが、明治座の七月は、去年は五木ひろしが戦後歌謡をひとりで歌いまくるという公演があって結構楽しんだ。今年は、石川さゆりが『長崎ぶらぶら節』を再演するというので出かけた。四年前に初演したとき、ポスターの芸者姿が並みのタレント芝居や歌手芝居のレベルをはるかに抜いてサマになっていたので、ホオと思って見てみたら、ちょいといけるものだったので、以来、少しばかりファンになっていたのである。

ついでだが、舞台女優のホンモノ度を測るひとつの尺度として、芸者姿がどれだけサマになるかというのが、案外バカにならない測定値になると私は思っている。現に今度にしても、埋もれていた「ぶらぶら節」を主人公に教える老芸者を演じる小泉まち子が実に見事な芸者振りを示して、当然といえば当然だが舞台俳優として抜群の存在感である。料亭の女将役で出演している淡路惠子も、近年、その女優人生のすべてを存在感として具現するかのような、なかなかいい味を示しているが、これまた当然だが舞台俳優としてのそれということになると、小泉のようなわけにはいかないのはやむを得ない。市川翠扇子飼いの弟子として永いこと新派の舞台を踏んできたキャリアは只ものではない。歌舞伎の女形でいえば吉之丞のそれに匹敵する。

石川さゆりの芸者姿は、もちろん、そういうものとの比較にはならない。しかし、そこらの女優やタレントにそれらしい格好をさせたというのとはちょいと違う、妙な言い方だが「本物感」がある。もっとも実際に舞台に現れたところを見ると、ポスターで見て感心したほどではではないが、愛八というヒロインへの共感の深さが察しられるところに、百聞は一見に如かない真実味があるのがなかなかのものである。それに何と言っても、ぶらぶら節を実際に自分で歌えるのが、何といっても強みだ。所詮は女優ではない彼女の力をうまくカバーして、話の要点だけをつまんでゆく脚本の具合が、なかなか巧妙であるのにも助けられているのだが、西条八十に見出されてレコードにぶらぶら節を吹き込む場面の気の入り方など、繰り返しになるが役への共感が生きている。少なくとも、最近多い、構成舞台をドタドタ駆け回って絶叫するたぐいの舞台に比べれば、はるかに芝居になっている。

ところで、相撲好きだった実際の愛八がお座敷の芸として名物にしていたという「横綱の土俵入り」を実際に舞台でやって見せるが、(四股の踏み方など、腰にねばりがあってちょっとしたものである)、これは四年前の初演の折、当時理事長だった北の湖直伝で教わったもので、明治座まで教授に来てくれた北の湖が上着を脱いでセリ上がりを実際にやってみせてくれるのを間近に見ていたら、まるでアトラスか何かが地球を持ち上げるような、巨大なものを見るような迫力だった、とたしか本人が第二部のオンステージの中で言っていたはずだが、さもありなんと思わせる。あの北の湖のぶっきらぼうの魅力は、理事長としてはともかく、まさに「力、山を抜く」横綱ぶりだった。

ついでだが、序幕の「東京大角力協会」巡業の場面に「常ノ花」という幟が立っていたが、大正十一年という設定だから当時人気の大関だった筈だが、思えばその常ノ花が、前回書いた昭和三十二年前後、相撲茶屋の問題などが国会で問題になったときの理事長だったわけだ。

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