随談第351回 「国技」と「国劇」

名古屋場所も何とか終ったが(千秋楽の白鵬・把瑠都戦はなかなかよかった。把瑠都の巨体が、こらえようとしてこらえ切れずに落下するあの間合いに、相撲の醍醐味が凝縮されていた)、すべてはこれからである。このところの度重なる不祥事が報道されるたびに、オレは相撲を国技だなぞと思ってないぞ、という声を、ワイドショーの出演者などからちょいちょい聞くようになった。たしかに、ついこの間のサッカーW杯の好感度と、皮肉にも時を同じくして報道される野球賭博問題の対照は、天の配剤ならぬ悪魔の配剤のようなものだった。ところで今日の話は、国技館という名称である。明治の末に初代の両国国技館が出来た時に、板垣退助だか江見水陰だかが名付け親になったといわれるが、少なくとも「国技」という言葉がこのときに誕生したことは確かであって、良くも悪くも、いかにも明治的な発想が生んだ言葉であることは間違いない。

かれこれ二、三十年前になる。歌舞伎座の前を歩いていたら、何歩か先を行く、高齢だが、おそらく地元では名士の部類に数えられるほどの人らしいたたずまいを見せているひとりの老人と、介添えの娘さんかお嫁さんかとおぼしい中年の女性が、「ホラお父さん、歌舞伎座よ」「ウム、国劇の殿堂だなァ」と交わす会話が、耳に入ってきた。思わず吹き出したくなるのをこらえながら、おそらく明治生まれに違いないこの地方の名士らしい老人が、歌舞伎座イコール国劇の殿堂と即座に結びつけるその発想に、私はしばし感じ入った。

なるほど、歌舞伎座を国劇の殿堂と呼ぶ呼び方は確かにある。歌舞伎座自身、それをキャッチフレーズのように使っていたひと頃もあったような気もする。この言葉にも、明治の匂いが芬々としている。つまり、歌舞伎座を「国劇の殿堂」と呼ぶのと、「国技館」という名称とは、発想の上でほぼ双生児といっていい。国劇という言葉を、いつ誰が言い出したのか、考証的な知識は持ち合わせないが、大正頃からしきりに言われるようになった「国民演劇」とか「国民劇」とかいう言葉と、発想の上で通底することは間違いない。つまり歌舞伎のほかに新派だ新劇だ、といろいろな新演劇が出てきた挙句、日本人の演劇とは何か、ということを問い始めた時が誕生の時だったに違いない。(そういえば、「新国劇」なる劇団が誕生したのも大正中期である。われこそが新しい国劇なり、という発想だろう。)

「国劇の殿堂」というのはいかにも野暮ったいが、「国技館」というネーミングは、それに比べるとなかなか気が利いている。永年親しんできたせいもあるが、私も満更嫌いではない。しかし「国技」という言葉には麻薬的な毒素も含まれていることは、知っておくべきだろう。毎度言う如く、私が相撲を「国技」だと考えるのは、相撲ほどこの国の民俗に深く根差した競技はほかにないと思うからであり、だからこそ、「国技大相撲」と麗々しく振り回すのは、いかにも野暮くさい。花見る人の長刀である。

それにしても、回向院の境内で晴天十日間興行していたのを、客席ごとドームですっぽり覆ってしまうということを明治四十二年という時点で考え出したというのは、思えば大変な発想ではあるまいか。(野球がドーム球場を作ったのは昭和も末のことだ。まあ、能楽堂と同じ考え方といえるが、容量と面積が比較にならない。)土俵の屋根を支える四本柱を取り払って吊り屋根にしたのは昭和二十七年である。更に、本場所休場中に戦後初の日米野球を見に行って引退に追い込まれた横綱前田山が、こんどは高砂理事として初のアメリカ場所を先導してハワイから後の高見山を連れ帰って外人力士を誕生させて「国技」大相撲にガイジンを導き入れる道を開いたり(この高砂という人、いかにも、悪に強きは善にも、という感じがするではないか)、勝負の判定にビデオを導入したり(サッカーのFIFAはまだやっていませんね)、他のスポーツに比べても大相撲は革新的な改革を随分実行しているのだ。「国技」なのに外人力士ばかりと苦情を言う人が、大相撲の閉鎖性を批判するのは矛盾ではないだろうか?

東京オリンピックの当時、日本選手の振るわないのはプロ野球と大相撲に才能を持っていかれてしまうからだと、もったいらしく言われたものだった。砲丸投げの解説者が圧倒的な外国選手のたくましさに、向こうは大鵬や柏戸みたいな人たちばかりなんですからね、と溜息をついていたのが忘れがたい。(そういえば優勝した女子の投擲の選手に、おんな大鵬と仇名がついたっけ。)今のようでは入門志望者がいなくなると部屋制度改革を論じる声が最近高くなっているが、以前は、自分から志願して入ってくるようなのは案外大成せず、遠い田舎の貧家の少年が、東京見物をさせてやる、などと甘い言葉でなかば誘拐同然に釣り出され、夜行列車で上京してくるようなのが出世するのだと言われたものだった。中学を卒業したばかりの少年北の富士が、北海道から小豆だか大豆だかを詰めた布袋を背負って夜汽車で上京、上野駅に降り立った途端、袋が破れてプラットホームに豆沢山にぶちまけてしまったという、面白うてやがて哀しいエピソードは、さまざまなことを物語っているかのようだ。

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