随談第353回 『尾上多賀之丞の日記』を読む

正確なタイトルは『人間国宝・尾上多賀之丞の日記-ビタと呼ばれて-』というのだが、A6版で380ページという嵩のある本だから、持ち歩いて電車の中で読むにはちと大きい。幸い、八月冒頭の三日間、終日家にいられる日がぽっかりと空いたので、炎暑の午後の楽しみにはもって来いと決め込むことにした。

元来夏が好きなせいもあるが、盛夏の午後、クーラーはかけず扇風機だけ、ベッドの上に花茣蓙を敷いて、マーラーだのブルックナーだのといった敢えて暑苦しい大曲をかけながら、寝転んで大部の本を読むというのが、私の最も好む至福のひとときの過ごし方である。原稿を書くなら涼しい方がいいが、読書というのは、物を書くよりは受動的な要素が強いためだろうか、あまり安楽でない方が却って集中ができるのである。それに、開け放した窓から、真夏の空気が、都会といえどもなつかしい自然の感覚を肌えにもたらしてくれる。この感覚には遠い日の思い出のような、ふしぎな郷愁が潜んでいて、その感覚こそが、私にとって最も快適と感じられるものなのだ。

夕暮れてきたら、庭というほどでもない家のまわりの草木に水など撒いて、ひと風呂浴びてからはもう汗は掻きたくないから、クーラーをつける。仕事をするにしても物を書くか、調べ物をするかで、楽しみのための読書はもうしない。それは午後の至福のひとときのためだけのものだからだ。この至福の時は、だから、終日どこにも出かける用事もなく、完全に我が物とできる一日か、せめて早めに用事をすませて帰宅できる日でないと、むずかしい。もちろん、そんな日は、ひと夏の内にそう何日もあるわけではない。もうひとつ大事なことは、そうやって読む本が、当然ながら面白いものでなければならない。本がつまらなければ、せっかく整った舞台装置も、台無しになってしまう。

さて、多賀之丞日記である。おもしろかった。八月の猛暑の午後の、至福のひとときを過ごすに足りた。日記は、昭和三十年から、亡くなる五十三年までの二十年余のもので、当初は手帳に、のちには当用の日記帳に書いた基本的にはメモで、処々に感想風の記述があるといった体のものだから、当然だが誰が読んでも面白いというものではない。役者同士や幕内に関わる人たちとの関係がわからないと、記述の裏に潜む意味を読み取れない。もっともそれは逆に、これによって役者の世界の人間関係や日常を知るおもしろさでもある。役を振られ、それを引き受けるか断わるかにも、いろいろな思惑がからむ。幹部以上か以下かを問わず、役について教わりに来た役者が、他日そのお礼をする。それが金であったり、物品であったりするのだが、そこにもその役者と多賀之丞との関係や、その役者の人となりが何となく窺えたりする。

何といっても面白いのは、稽古中や、初日が開いてからの舞台の感想を、ずけりと書いているその凄みである。世にときめく大幹部であろうと、多賀之丞の目に容赦はない。××は稽古に入ってもセリフも覚えず何の工夫もしてこない、ダメな奴、と書く。その××は、人も知る超大物俳優である。正月の芝居に多賀之丞の役がないのを気遣って、○○が役をふってくれる。さて稽古に入ると、肝心のその○○の科白がいくら教えても気分が出ない。義太夫を稽古しない役者は時代物は所詮は無理、と多賀之丞は日記に書く。後の十一代目団十郎の海老蔵が、大仏次郎が海老蔵のために書いた新作を稽古の段階で拒否して、以後疎遠になった有名な事件の顛末なども、簡潔な記述のなかに冷徹ともいえる眼差しで的確に捉えている。例の通り成駒屋の長い舞台には閉口なり、などという記述も見える。東横ホールの若手の芝居を、中途半端で見るに耐えず、と書く。

そうした中で、孫の清一が誕生し、やがて初舞台を踏み尾上菊丸を名乗り、学校へ通い出し、さらにやがて、東京大学の入試に合格する。長男の尾上菊蔵が本名の太郎として登場し、常に身辺近くあって孝養を尽している姿や、ウタ夫人が絶えず影身に添うように行動を共にしている様子が、記述から窺われる。映画好きでしゅっ中映画を見ているが、『青空娘』などというのまで見ているのには驚く。(若き日の若尾文子の主演映画である。)

日記に書き記されている昭和三十年代この方は、私にとってはちょうど歌舞伎を知り、次第に深入りをして行った時期に当る。私にとってのなつかしい舞台を、多賀之丞は幕内からこういう目で見ていたのか、という個人的な興味もある。編著者の大槻茂氏は、読売の社会部の記者として、菊丸の歌舞伎界初の東大入学という記事を書いたことから多賀之丞・菊蔵の知遇を得た人との由だが、第二部の「日記編」に対する第一部として、多賀之丞と菊蔵の簡潔な評伝を執筆している。小芝居から六代目菊五郎に女房役として迎えられて大歌舞伎の人となった多賀之丞の役者人生の浮沈を、社会部記者らしい視点から、同情と共感をもって切り取っている。「ビタ」と呼ばれて、という副題は、役者としてのそうした出自が、人間国宝となってもなお終生ついて回ったことに対する、著者の訴えるところだろう。

それで思い出すのは、昭和四十六年五月、六代目菊五郎二十三回忌の追善興行の「口上」の席次である。(このときは、映画に行った大川橋蔵が久しぶりに列座するというのが話題だった。)多賀之丞の席は、舞台前面に横一文字に並んだ歴々と別に、下手斜め後ろに心持ち離れて敷かれた、菊蔵と二人だけの小さな緋毛氈だった。ア、そういうものか、とある衝撃を覚えながら見たのが忘れがたい。(日記には当然、その興行のことも出てくるが、席次については一言も触れていない。)

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