随談第363回 『滝の白糸』のこと

このところ、事情あってこのブログを書く時間がなかなか取れずにいる。書きたいことはいろいろあるのだが、こういうものは日記と一面共通するところがあって、タイミングを逸すると、時事性や話題性が薄れ、ひいては感興が失われてしまう。白鵬の連勝のことも、野球のことも、時期を失してしまった。が、これらはまだ話題にするチャンスがまた巡ってくるだろう。しかしこれから書く新派公演のことは、いま書いておかないと書く折をなくしてしまいそうだ。舞台を見てからもう2週間も経ってしまった。

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三越劇場の『滝の白糸』は、人によっていろいろな意見が出るだろうが、わたしは結構面白いと思って見た。理由は一に舞台成果、二に今度のような上演形態である。

「花形新派公演」と謳ってはいるが、滝の白糸の春猿をはじめ、南京寅吉を猿弥、一座の三味線引きのお辰を笑三郎、先乗りの新助を市川弘太郎その他、配役のいいところを猿之助軍団の面々で占めるというチームである。これら歌舞伎勢と、今度でいえば井上恭太等、新派側の若手の組み合わせで、新しい流れを作り出そうというのが、狙うところなのだろう。

春猿の滝の白糸というのは、たしかにアイデアである。何とはなしに、もう少し前の玉三郎に似たところもある。つまり歌舞伎の女方というより女優に近い感触であることとか、歌舞伎古典よりも新派ぐらいの方が水に合う芸質なのだ。まず、なかなかのものである。

改めて思ったのは、鏡花物というのはやはり女方の芝居なのだということである。名前を出しては何だが、たとえば波乃久里子(の方がもちろん春猿よりずっと巧い)が緻密に堅実に、みっちりと白糸を演じて充分納得させながら、土壇場の大芝居になると、芝居がくすんでしまう。これは芸の良し悪しとは別の問題である。つまり、法廷の場から幕切れへかけてのあんな芝居は大嘘なのであって、ナチュラルな芝居で埋めようとしても埋めつくせるものではない。そこへ行くと春猿は、いくら女優に近いとは言ったって女方には違いがない。久里子があれだけ努力しても飛び越えられない芝居の嘘を、やすやすと飛び越えてしまっている。

思えばさよなら公演が始まる以前、毎年七月の歌舞伎座は玉三郎を中心とし、春猿だの笑三郎だのが、専ら鏡花物を演じて相当の成果を見せていた。いまさら驚くことではないのだ。一月には、今度は『日本橋』を段治郎が出すらしい。この路線がしばらく続くこを期待したい。

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