随談第364回 大沢啓二とコロンビア・ライト(十月の死亡記事から)

戦後65年という年月を思えば当然なのだろうが、このところ、その死が何らかの戦後史を語ることになる人物の訃報が目につく。

親分としての大沢啓二氏については、多すぎるほど多くの人が物を言っているから、改めてここに書くほどのものは何も持ち合わせていない。ただ思うのは、あの人がはじめからあれだけの存在になるとはおそらく誰も思っていなかったであろうということで、その意味では意外性の人であり、その意味で、興味のある人物だったということになる。どこかに、人の見ていないものを見ていた人の視線を感じさせた。

現役時代は、守備の巧い外野手ということは野球好きなら知っていたが、打撃はたいして当らないし、人相もややヒールっぽいし、つまり全国区規模の有名選手というわけには行かなかった。一躍名を挙げたのは、昭和三十四年の、南海が巨人に4タテを喰わせた日本シリーズで、ヒットかと思うと落下点に大沢がいて難なく捕ってしまう、というプレイがしばしばあった。一番有名なのは、三塁に広岡がいて、森(のちに西武の監督になったあの森)がやや浅いフライを打った。タッチアップして広岡が生還、と思うとあっさりアウトとなって、ああこれも大沢だ、というので皆を唸らせた。(反対に、広岡はなぜ滑り込まないのだ、と物議をかもした。)当時の野球は、ベンチから外野手に守備位置の指示などしないから、自分ひとりの読みと判断で、予め移動していたというのだが、思えば、この種の「俺流」が後の野球人としての人生を貫いていたのに違いない。

コロンビア・ライトの死は、半ば忘れていた名前だけに、感慨は大沢よりはるかに深い。コロンビアというネーミングは、レコード会社のコロンビアが由来で、テレビ出現以前、ラジオの「コロンビア・アワー」というコロンビア提供の歌謡番組の司会役をトップと一緒にやっていたのが、私にとっての一番古い記憶である。やがてテレビ草創時代にやった『おトボケ新聞』というのがじつに面白かった。昭和三十四、五年ごろ、つまりクレージー・キャッツの『おとなの漫画』と同時期だが、こっちの方が面白かった。三国一朗が編集長でトップ・ライトが記者、松任谷国子というのがマア賑やかしの女子社員、社員四人だけの小さな新聞社という設定で、ときのニュースをぼんぼん取り上げる。もちろん生放送で、たぶん毎日の放送だったのではなかったか。草創期のテレビでなければあり得ない番組だった。ゲストのコーナーがあって、社に来てもらうという設定で渦中の人物に生出演してもらう。安保騒動だか何の時だったか忘れたが、椎名悦三郎とか河野一郎などという超大物の政治家が登場したのをおぼえている。思えばこの頃が、トップ・ライトの花の季節だったろう。

ライトの悲劇は、これに味をしめたトップがどんどん政治づいて、ついに参院選に出馬して当選、本当の議員になってしまうというところまでエスカレートし、もう漫才なんかやっていられるかという態度を露骨に見せるようになったことで、つまりライトの存在はあってなきが如くになってしまった。歌謡番組の司会をしていても、「お年寄には青春の思い出を」までを普通ならトップが言い、「若人には永遠の喜びを」までを普通ならライトが言い、「ではまた来週」というのを一緒に言うべきところを、トップがひとりで全部言ってしまうようになったのだ。(昔式の亭主関白で、酒の気の絶えない父の暴君ぶりにトップの横暴を重ね、結局我慢するしかないライトにわが身を重ねて、わが母がおかしがりつつ同情していたのを、今度の訃報は思い出させてくれた!)

つまりあのストレスは胃にいい筈がないのであって、癌にかかり克服し、晩年は癌撲滅運動に専念していたという報道は、思えばなにやら物悲しい。漫才師になる前は落語家だったというが、きれいに髪をリーゼント・スタイルにし、スーツを身ぎれいに着こなした姿は、ちょっぴりだが、大川橋蔵に似ていないこともなかった。たぶん、同世代であろう。つまり、そういう世代の人間の匂いを色濃く持っていた芸人だった。

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