随談第365回 やけたトタン屋根の上の猫

新国立劇場の演劇芸術監督が替わってから始まったJAPAN MEETS・・・というシリーズがなかなか悪くないスタートを切っている。そのIの『ヘッダ・ガーブレル』は面白いながらもちょっと飲み込みにくい(呑みこみ、ではない)ところもままあったが、今度の『やけたトタン屋根の上の猫』はかなり気に入った。『ヘッダ』の方は、現代の俳優が現代の演出家の手で、手馴れた(?)手を使って、軽く運ぶところはそれなりの諧調があるのだが、何といっても一世紀昔の、それも北欧という社会の話であることからは避けがたく逃れられないのは、そういう部分でのギクシャクは、やっている側はどうか知らないが、見ているこちらは気になることになる。石造の建材にプラスチックやセラミックの部品を取り付けたような、軽い違和感として、意の腑にしこりが残ることになる。新しいかと思っていると、やっぱり百年前の芝居なんだというところが混在するからだ。(これがいっそシェイクスピアなら、そんなことはたいして気にならなくなるのだが、イプセンではそうは行かない。)

が、まあ、いまは『ヘッダ』の話をするつもりではなかった。『トタン屋根』がかなり気に入ったというのは、テネシイ・ウィリアムズにせよ誰にせよ、アメリカ演劇というものが私はどうも苦手で、あまり面白いとか、いいなあとか、思った記憶がほとんどないのだが、その意味では、こんどはじめて面白い、簡単に言えば、よくわかると思った。こちらがそれだけ齢をとって、理解が練れて来たせいもあるかもしれないが、芸術監督の宮田慶子氏も筋書(歌舞伎風にいえば)に書いているように、アメリカ南部の風土というか、喉が乾きそうな感じに「距離感に茫然とし、挫折感に捉われる」ことがあまりなくてすんだのは幸せだった。学生だった昔、杉村春子の『欲望という名の電車』とか、滝沢修の『セールスマンの死』とかいった、新劇の極め付物を見て、劇の内容そのものよりも、新劇流名人芸というものの、ある種のアクの強さに、正直なところ、いささか辟易した記憶が、いまも結構後遺症として残っている。新劇歌舞伎、と言う言い方もできるだろうが、それは少し面白がりが過ぎかもしれない。要するにそこにあったのは、杉村とか滝沢という名優たちの一代芸であったのだというのが、いま振り返って、一番正直なところなのではないかと思う。(名優の芸というのは、そういうものなのかもしれないが。)

いまはそういう「名優」たちはいない時代である。今度だって、Big Daddyをやった木場勝巳などという人はじつにうまいけれども、すくなくとも杉村だの滝沢だのがそうであったような意味では、名優ではない。そうしてそれ故にこそ、このBig Daddyはとてもいいし、ランクは少し違うが北村有起哉のBrickもなかなかのものだし、ひいては今度の『トタン屋根』という芝居の舞台そのものもとてもいい、という結果になったのだ。

それに、平凡なことをいうようだが、一九五〇年代のアメリカの家庭のここに描かれているような形とかあり方とかが、現代の日本人としてのわれわれに、大した違和感も距離感もそれほど気にせずに、受け入れられるように、いつのまにかなっている、ということなのだろう。

とはいえ、テネシイ・ウィリアムズというのはどうしてああ言葉が多いのだろう。ことに第一幕は、あれほどまでに長い必要があるのだろうか。寺嶋しのぶのマ-ガレットは、あんなに長時間、のべつ幕無しに(この言葉、歌舞伎から出た演劇用語である。『忠臣蔵』の口上人形の言う「幕あり幕なしにご覧に入れますれば」という、あれだ)がなりたてる必要があるのだろうか。その寺嶋も、二幕目のカマトトぶりはなかなかチャーミングだった。その他の役々も概していいが、広岡由里子のMaeの演じ方は、あまりにも現代の日本人の日常にひきつけ過ぎているように見える。昔はああいうのは、我でやっている、といったものだが、じっさいにそうなのかどうかは私にはわからない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です