随談第367回 海老蔵と琴光喜

海老蔵騒動も、海老蔵の退院と記者会見、犯人出頭(というより名乗り出)と逮捕と、第二幕に入って、いまこの時点ではボールは向こう側のコートにある感じである。記者会見での海老蔵の発言などなど、気掛かりなことはいろいろあるが、いまあまり不用意なことは言わないほうがいいだろう。ただ、あの時点での会見は、一月のル・テアトルの興行をどうするのか、ぎりぎりのタイムリミットであったというのが一番の理由であったと思われるが、マスコミ(と世間)の関心は事件の方にあり、質問も時間も大半はそちらに費やされることになったのは、余儀ないところと言わなければならない。しかしいま、海老蔵が何よりも痛切に気づかなければならないのは、事件の黒白よりも、あの会見に対する世間の痛烈な空気だろう。

事件の黒白は、ここまでくれば警察に、もし裁判に持ち込まれたなら裁判所にまかせるしかないのであって、大切なのは、一件落着したあとに社会が「海老蔵という存在」をどう受け止め(てくれ)るかにある。社会の受けとめ方としては、極論をすれば、ある意味では、仮に「黒」であったとしてもいいのだ。それを社会が、納得して、海老蔵というものを、よしと認められるようなものであるならば。逆に「白」であっても、世人の得心がいかないような「白」ならば、人気役者海老蔵は死ぬだろう。仮に「黒」であったとしても、海老蔵っていい奴なんだ、と世人が思うなら、海老蔵は甦るだろう。要は、正直に認めるべきは認め、自らの内にわだかまるところないようにする以外はない。ひとは、そういうことにかけては、おそろしいほど敏感に見抜くものだ。これは、警察のレベルの白黒とは別のレベルの話である。

海老蔵は荒事役者である。仮に光源氏を演じようと、海老蔵が演じる以上は、それは本質的な意味において、荒事である。荒事は、わっさりと、明々白々でなければ意味がない。心に曇りがあっては、荒事など無意味である。海老蔵という天性の荒事役者が、ことばの真の意味に於いての荒事を演じられなくなっては、海老蔵は死んだのも同然である。(それは手術の後遺症がどうのこうのといった話とは全然別の問題である。)

私の見るに、海老蔵は21世紀という現代に生まれた助六である。助六は、毎日喧嘩をしに吉原にやってくる。雷門でヘソを取ったり、砂利場に喧嘩の相手を蹴込んだり、カラスの鳴かぬ日はあっても助六の喧嘩の噂を聞かない日はないほど、乱暴はするが天真爛漫な男である。助六が喧嘩をして警察につかまれば、ときには喰らい込むこともあるだろう。しかしそんなことで、だれも助六を悪くいうものは出ない。もう一度言う、助六は乱暴はしても天真爛漫で、じつは誰だって、助六のようにふるまえたら、助六のように生きられたら、どんなに気が晴れ晴れするだろうと思うからだ。海老蔵の助六が誰の助六よりも、本当に助六がそこに、われわれが手を伸ばせばすぐそこにいるような感じがするのは、海老蔵が助六そのものだからである。しかし髯の意休やくわんぺら門兵衛を相手に喧嘩をしている内はいいが、今度の一件の相手はいかにもタチが悪すぎる。どちらが手を出したの出さなかったのというより前に、あの手の連中と酒の席で関わりを持ったというのは不敵すぎ不用意過ぎる。ただの喧嘩沙汰ではすまされないところへ踏み込んでしまったことになる。

いまの時点で、無期限の出演見合わせという松竹の取った措置は、適切というべきだろう。琴光喜が永久追放になってしまったのとはもちろん意味が違う。あれは、警察のターゲットは暴力団にあり、大相撲はそのキャンペーンを世間に周知させるよい見せしめとして使われたようなものだ。窮地に立った大相撲としては、これだけ真剣に取り組んでいるぞというところを世間に周知させる必要があり、大関という地位にある琴光喜は、見せしめのまた見せしめとして格好と見做されたわけだろう。調べに対し、自分は潔白と嘘の供述をしたのが罪を重くしたというのが外部識者による委員会の説明だったが、一旦の保身のためのウソを理由に力士生命を奪うほどの罪を犯したとは思われない。それこそ無期限なり、一年なり半年の出場停止ぐらいで充分であったはずで、復帰嘆願の運動が始まっていると聞くが、尤もなことである。かつてのプロ野球の黒い霧事件で、西鉄の池永が追放処分になったのと同じ、つまり協会なり野球連盟という組織のための生贄になったわけだ。

海老蔵の場合は、ことの事情はもちろん異なる。が、暴走族とかその背後に暴力団の存在が見え隠れしているのが、事態を想わぬ方向へ急転回させないとも限らないイヤな感じである。それが、気になる。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です