随談第369回 春の嵐=富十郎逝去

中村富十郎の訃は、四日の早朝、まだ寝床にいる内に、共同通信社からの追悼文依頼の電話で知らされた。まったくの不意打ちだった。前日、浅草の若手歌舞伎を見、その日は新橋演舞場を見る予定で、そもそも夜の部の『寿式三番叟』で富十郎の翁を見るつもりでいたのだった。休演の報すら知らなかったのだから、仰天するしかない。(咄嗟に考えたのは、前日の舞台で倒れでもしたのか、ということだった。)そのまま劇場に行き、今度は『日経』に翌日の朝刊に載せる追悼文を、幕間ごとに書き継ぎ書き上げ、夜の部の幕間に校正をするという離れ業を初体験した。夜の部の『三番叟』の幕が開き、鷹之資が附千歳の役で、翁の梅玉・千歳の魁春・三番叟の三津五郎と一緒にせり上がってきたときは、何とも表現の仕様がない空気が場内に流れた。前日のこの時刻、富十郎はまだこの世の人だったのだからまだ一昼夜も経っていないのだ。鷹之資にとってはもちろんだが、われわれにしても、生涯忘れることのない体験である。

というわけで、ちゃんとした追悼文は二紙に二種類書いたから、ここではそういうのではない、追悼文の如きもの、を書くことにする。

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富十郎などの世代だと、まだ若手といわれていた時代から知っているから、前時代の大家たちに対するのとはまた違い、その活動のかなりの部分を見ているという親近感のようなものがある。といっても、「扇鶴」と呼ばれた関西時代は知らないから、坂東鶴之助というハリハリしたセリフを言う役者を親しく見た最初は、むしろ映画でだった。昭和二十九年、白鸚の幸四郎が大石になった松竹映画の大作『忠臣蔵』で、矢頭右衛門七をやっていたのを見たのが最初で、その後、映画製作を再開したばかりの日活で『若様侍捕物帖』などをやっていた。新珠三千代の妹で桂典子という、細面の姉と違って顔幅の広い女優が相手役だった。(つまり後の東映版での橋蔵と星美智子の関係である)。ところがこの鶴之助のセリフというのが、映画のセリフとしては息が詰んでいすぎるものだから、どうも座りがよくない。釣をしている若様に、「あら若様、何を釣ってるの?」と桂典子が訊くと、鶴之助若様が「鮒だよ。鯉(恋)も釣れるよ」と答える。富十郎独特の、トーンの高いよく粒立った早口で、弥太五郎源七なり、青果の『慶喜命乞』の山岡のセリフなりを思い浮かべてもらうと、すこーし、わかっていただけるかもしれない。普通の映画俳優が「鯉だよ」を「♪♪♪」というぐらいの感じで言うとすると、鶴之助はそれを三連音譜ぐらいの速さで言ってしまうのだ。当時の時代劇映画の観客などというものは、こんなセリフの言い方には慣れていないから、要するに鶴之助は映画俳優としては失敗だった。(三代目時蔵が錦之助の映画に出演して、舞台の調子でセリフを言ったら、千恵蔵はじめ居並ぶ映画人たちがシーンとしてしまったという話がある。)

坂東鶴之助から市村竹之丞になって、三転して中村富十郎になる。これがたとえば、新之助から海老蔵、団十郎になるようなのと違って、まったく系統立っていないところに、富十郎という人の波乱万丈の役者人生が象徴的に現れている。とりわけ竹之丞襲名は、いまの田之助が由次郎から田之助になるのと同時襲名で、これが羽左衛門の忌譚に触れて物議を醸したりするのだが、それからしばらく、この二人と、いまの猿之助と訥升といっていたのちの九代目宗十郎と四人で組んで、東横ホールや当時の古い新橋演舞場やで芝居をしていた頃が、一番なつかしい。この四人がみんなはみ出し組と見做されて、当時中国で羽振りのよかった紅青女史らのグループにひっかけて「四人組」などと異名をつけられた。竹之丞と猿之助が昼夜で弁慶と富樫を交替し、訥升と田之助が昼夜で義経を替る『勧進帳』などというのもあった。中でもこの四人組でやった『夏祭浪花鑑』の通しは、その後見たどの『夏祭』にもまさって忘れがたい。(八代目團蔵がやった三婦が、いかにも街のすがれた老侠客の凄味があった。この人はこの翌年、瀬戸内海で入水したのだった。)それにしてもこの四人が、「谷間の世代」と呼ばれたその後の長い長い冬の季節を、それぞれ如何に通り抜けたか、考えれば四者四様、じつに面白い。

昭和五52年11月の歌舞伎座と中座に東西の全歌舞伎俳優が結集して同時上演した東西忠臣蔵のとき、富十郎は借金返済のため美空ひばりの芝居に客演していて、そこから駆けつけて十一段目の討入りの小林平八郎一役、二十歳を過ぎたばかりの勘九郎を相手に壮絶な立ち回りを演じた。鬱憤を晴らすかのようだった。勘九郎も実に見事に対抗し、これを見た目には、その後誰のを見たって物足りなくて仕方がない。(この二人は「石橋」で二百何十回だか、毛を振ったこともある。)

どれも昭和五十年代だが、矢車会の第一回で演じた『勧進帳』、国立劇場の舞踊の会で踊った『娘道成寺』『鏡獅子』。ただ一日だけの公演に根限り演じたその凄さは、他の誰のとも比較が出来ない。おそらく、それぞれのその一回限りに、富十郎は賭けていたのだと思う。自分の持てる芸を、アピールしようという強い決意が読み取れた。そうしてそれが、富十郎此処に在り、を見事に証明して見せたのだ。これだけのものを放って置くとすれば、それは悪意としか言い様がない、と私もまだ若かったから本気で思ったものだった。いや、その通り書いた。読んだ人は千人もいなかろう小さな場だったが、当の富十郎から思いもかけず封書が届いた。まだ一面識もない頃である。歌舞伎座に近い某ホテルの名前の入った便箋と封筒だった。その頃富十郎は、住む家を失ってホテル住まいをしていたのだった。とにかく良い芸をして見る人に喜びを感じてもらう、それが自分にとっての喜びである、という意味のことが書いてあった。富十郎の心の悲しみの深さを、私は知ったような気がした。

あの頃のことを、私はいまも、ふと思い出す。舞台の富十郎の思い出は尽きないが、人間富十郎の思い出といえば、それに尽きる。芸で、芸の力だけで、富十郎は生き抜いたのだ。すぐれた役者はさまざまあるが、天才、といえるのは、この人であったと思う。

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