随談第370回 新派『日本橋』

じつはもっと早くに出すつもりで途中まで書きかけていたのだが、何かと隙取って明日が楽日ということになってしまった。またしても効かぬ辛子と出遅れた幽霊のような話だが、せっかく書きかけたものなので、前後を足して掲げることにしたい。

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昨年十月の『滝の白糸』に続く三越劇場の新派公演。この前は春猿が滝の白糸を演じたが、今度は段治郎が葛木晋三をつとめる。猿之助軍団でのユニークなキャラクターを持つ二人を、新派に取り組ませるというのは、誰が考えたのか、興行上のなかなかの名案という以上に、新派にとっても、当のご本人たちにとっても、もっと深長な意味をもつことになりそうである。

段治郎という役者は、ちょっと見にはうまいのだか拙いのだかわからないようなところのある人だが、それがこの葛木のような新派の二枚目によく映る。そもそも新派の二枚目役というのは、うまいのだか下手なのだかわからないような人が、ちょうどうまくはまるところがある。というより、巧さが先に立つようではいけないのであって、実は巧いか拙いかとは別の話なのだと思うが(これはかつての映画の二枚目というのもそうだった。つまり昭和20年代までの映画というのは現代劇といえども、歌舞伎以来の「二枚目」という役柄の上に成立していたからである。「性格俳優」なるものが持て囃されるようになってから、二枚目スター大根説という「迷信」が、定着するようになったのだ、というのが私の考えなのだが、これはまた他日の論ということにしよう)、つまり新派の二枚目というのは、歌舞伎の辛抱立役を近代化したものと考えられる。歌舞伎の辛抱立役が、女のクドキをじっと聞いているとき、片方の膝、というより腿の上に両手を重ねて置いているが、新派の二枚目はほとんど無防備に両手をだらんとぶらさげている。つまりは、書生だからという新派風リアリズムなわけだが、『日本橋』の葛木晋三も例外ではない。

春猿も段治郎も、実はなかなか端倪すべからざる腕は持っているのだが、(今月、浅草公会堂で亀治郎の『黒手組助六』で白玉をやっている春猿は、ちょっとしたおススメである)歌舞伎役者としては、色がすこし原色的というか、テラテラしたところがある。和紙ではなく、アート紙色刷りみたいで、彼らだけでやっているときならともかく、大歌舞伎一同の間に入るとそれがわかる。ところが新派だと、全くではないにしても、あまりそれが気にならない。美男美女ぶりも、新派の方がうつりがいい。少なくともこの路線、しばらく続けてみることだ。段治郎は、たとえば謳い上げるセリフなど、歌舞伎の名調子を張らないで、よく考えているのがわかる。

この芝居は、清葉とお孝と、二枚揃わないと作意が立たないのだが、清葉には高橋惠子が新派初出演で出ている。しっとりとした情感があり、しっかりしたセリフの言える人なので、明治の味、などということさえ言い出さなければ、違和感なく溶け込んでいて悪くない。しかしその分、お孝をやっている波乃久里子がかなり奮闘することになるわけで、本来なら清葉役者の波乃としては、むしろ自分の芝居ではないところで、ウンと踏ん張る芝居をして縁の下から舞台を支えているのがよくわかって面白い。新派役者として「本格」を身に附けた底力を発揮したというべきで、近頃、この人の実力をやや過小評価していたことに気がつかざるを得ない。こういう力技は、本来なら女形がしていたわけだが、そこを女優がすることの面白さがある。やはりこの人は、大した「女役者」なのだ。

その他、安井昌二が巡査をやったり(これは本来なら「ご馳走」であろう)、大小さまざまの脇の役々を新旧各世代の新派の連中がつとめているのを見ると、何といってもここには、ゆるぎのないひとつの世界があることを、改めて実感させられる。腐っても鯛、というのは本来ほめことばではないのかも知れないが、どっこい生きているという意味で、まぎれもないプロフェッショナルの集団がここにこうして健在であることを、せめてこの場でなりと訴えたい。このひとたちの実力を、今の世はもっと知るべきである。

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