随談第373回 株式会社日本相撲協会・論(その1)

去年の野球賭博一件の折に既に書いたことだが、もう少し整理してもう一度ここに書くことにする。それぐらい、今度の「八百長メール」一件に始まる騒動は深刻である。報道を聞いて、私が先ず思ったのは次の二つのことだった。

第一は、八百長メールそのものである。内容もさることながら、世が世ならば天下の関取とフンドシカツギが、メールでいとも楽チンに対等な口を利いているという、デモクラチックというべきかアナーキーというべきか、このまさに当世的な光景にまず驚く。まるで白日夢を見せられているようだが、しかしこれが現実なのだ。「メール語」とでもいうべきこの気軽さ安直さ、話されている内容の重大さとの呆れるばかりの乖離。ここから読み取れることは二つある。その一、当事者にとってこれはまったく日常レベルの事柄なのだということ。その二、従って彼らに、これがどれぐらいヤバイことなのかという危機感というものがほとんど窺われないこと。彼らとて、知られてはマズイとは思っていたろう。しかし、そのマズサとは自分一身上のことだけに限られる。知られて、それがどういう事態を招き、どういう意味を持つことになるのか、まるで考えが及んでいない。(今日のニュースによると、メールに名前が出ているために調査委員会の質問を受けた中に、妻が踏んづけたので携帯が壊れてしまったと答えた者があったとか。自己保身に汲々とするあまりの想像力の欠如もさることながら、一方、新聞に報道されたアンケート形式の質問条項を見たが、あのアホラシさも相当なものだ。)

第二は、協会の対応のスタンスの取り方である。すでに多くの指摘があるようだが、放駒理事長が、八百長はこれまで一切なかったことであり、八百長と無気力相撲はひとつのものと考えると言明した一点に、すべてが集約されている。(オイオイ、いいのかな、そんな風に言ってしまって、と私はニュースを見ながら呟いたっけ。)過去における、週刊誌との訴訟問題のいちいちについて私はあまり熱心な読者でなかったから、つまびらかなことは知らないが、要するに、協会としてはこれまでと同じスタンスで、但しもっと真剣に対処しようということだろう。(放駒理事長個人の真剣さを、私も疑うものではない。)何らかの処分が下された後、週刊誌や処罰された当事者がどういう居直りを見せるのか、それも気掛かりだが、いまは話を先に進めるなら、協会のこの姿勢というのは、要するに(これも既に多くの指摘がなされているように)相撲協会を公益法人として存続させたいという、その一点に集約されていることは、誰の目にも明らかである。

と、ここまではまず差し当っての話の整理、私の言いたいのはこれから先である。(ついでに、熱心に読んで下さる方は、お手数でもこのブログの去年二月の第332回~335回と、七月の第349回(369回となっているのは誤まり)と第351回の項を見ていただけると有難い。)

玉木正之氏が、テレビで、相撲は神事としての要素が大きいのだから、この際、相撲協会は宗教法人になるべきだという発言をされたらしい。私は残念ながら、たまたまその最後の辺しか見なかったから、細部の論証は聞いていないが、かなり頷ける見解だと思った。即ち、いわゆる八百長相撲の問題というのは、相撲を近代スポーツの枠の中にはめようとするから起るのであって(しかもその場合、非常によろしからぬイメージを纏うことになる)、公益法人として認可され得るか否かという問題も、結局、その一点に追い込まれることにならざるを得ないだろう。今回のメール事件は、最も軽薄で安直な、しかしそれが故に最もドラスチックな形で、問題を白日の下に曝してしまったという意味で、ショッキングなのだが、世間の中で相撲に一定以上の愛と知識を持っている人ならおそらく察知しているであろうように、この問題は、相撲近代スポーツ化論で切り捨てるにはふさわしくない問題をはらんでおり、玉木氏の論の卓抜さはその点に触れているところにある。しかし、(さきにも言ったように、氏の論点をきちんと聞いたわけではないから反論という形は取りたくないが)、共感するところをかなり持ちながら、ちょっと賛同し切れないものも感じる。つまり、相撲は国技であるか否かという問題とも絡んでくるのだが、それは次回ということにしよう。(続く)

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