随談第388回 五月のもろもろ

気がついてみると五月ももう末である。震災後ひと月余りは日の経つのがやけに遅かったが、連休で金を落すのも被災者のためというリクツが浸透し始めた頃から、今度は逆に、日の経つのがやたらに早くなった気がする。浅草公会堂に『一本刀土俵入』のお蔦で亀治郎が共演している劇団若獅子の芝居を見に行って、お蔦がこれから越中小原節を唄おうというところで、震度4という、目下のところ東京では最後の大きな余震が来て、ぐらぐら揺れている中で唄い終わって、ワーと大拍手が来たのが、もう随分と前だったような気がしていたが、あれが四月十六日のことで、帰りがけの仲見世で小さな子供もいる家族連れの外国人のファミリイを見かけて、日本からガイジンがいなくなってしまったという風評の中、異人ながら奇特な人もいるものと眺めたりしたものだったっけ。

連休明けからは、各種の原稿の締切があって、気がつけば五月になってこのブログもまだ一回しか書いていなかったことを思い出した。(道理でアクセス数が減ったわけだ。)書くことがなかったわけではない。が、ついわれ知らず、無力感の虜になっていなかったとはいえない。原発をめぐるあれこれ、それをめぐるさまざまな意見発信のあれこれも、口巧者な人たちのお定まりの甲論乙駁のパターンにはまり込んでゆくのを見ていると、もうあまり、物を言う気もしなくなってくる。地震津波の被害地復興のテレビ報道も、ワイドショー流の美談の連続で、ここまで来ると、遠くから、最低限の関心は失わずに見ていることしかないのかという気にもなってくる。

歌舞伎も、いまは何年周期かの高度安定期にあることを証明するような舞台が繰り広げられていて、水準は決して低くないが、客席は何となく静まり返っているかのようである。別に熱気で沸き返るばかりが能ではないし、大人の観客が多いためには違いないが、表方の関係者の苦労が容易に察しられる趣もないではない。電車に乗ったって、出歩く人の数が少なくなっていることは明らかで、入りが戻らないのは劇場だけではないのは確かである。飢えている子供の前で文学は有効か、と分かり切ったことをさも重大そうに言った(つまりそれが、実存主義流の問題提起というわけだが)のはサルトルだったが、別に実存主義を持ち出すまでもなく、物を書いたり芝居をしたりするのは昔から不急不要の業と決まっている。それでも何かを書いたり、芸をしたり、球蹴りをしたり投げたり打ったりするのは何故か、ということを少しは考えてみるいい機会だともいえる。

七月からは海老蔵が出る。第385回に書いたのと大体同じような内容だが、共同通信から求められるまま書いたものが近々地方各紙に載るはずだから、目にとまったら読んでください。今だから言うが、昨冬の事件のとき、私が真っ先に怖れたのは、海老蔵がケータイを失くしたということだった。失くしたのではなく、奪われたのではないか? 昔、グリコの社長が自宅で入浴中に拉致され、数日後ほとんどそのままの姿で釈放されたという事件があったが、YOU TUBEか何かに流されでもしたらダメージはほとんど致命的であったろう。幸い、事はそこに至らずにすんだ。しかし海老蔵は、顔の傷は治ったとしても、心に何の傷も負わなかったのだろうか? 私はそれが気になる。どうか、正々堂々と舞台復帰できるようにしてもらいたいと願うばかりだ。

児玉清と長門裕之が相次いで逝ったが、二人とも昭和生まれである。昨冬相次いで逝った池部良や高峰秀子は大正人だから、私が知ったときには既に大人だったが、スタートの遅かった児玉はともかく、長門などは(『無法松』などの子役時代はむしろ後に知ったことだが)二十歳前後のヘナチョコのころの顔がまず最初のイメージとして思い浮かぶ。はじめてそれと意識したのは、アラカンと大河内伝次郎の『照る日曇る日』だったか。日活時代初期の『鷲と鷹』というのは、裕次郎と三国錬太郎と三人で嵐の中、貨物船の甲板で格闘するのだが、どう見たって、体力腕力すぐれた二人に、坊や顔で弱っちい長門が互角に闘うのが可笑しかった。役者としては、もちろんいい意味でいうのだが、相当なしたたか者であっただろう。たまたまつい先日、「華麗なるダメ男たち」というテーマの一作として神保町シアターで昭和33年の日活『銀座の砂漠』というのを見たが、弱弱しいくせに強がって案外芯がある、という役どころが、ちょうどその生涯を暗示しているように見えなくもない。それにしても、長門にしても弟の津川雅彦にしても、あそこの家は世が世ならば歌舞伎役者だったんだよなア。(二人の鼻を見てください。写楽が描いた役者と同じような、鼻筋の通った曲り鼻をしている。)

児玉清という人は、長門兄弟と逆に、芸ではなく、「良き素人」であった人だろう。知性と人間としての成熟とで、齢を重ねるごとによき生き方をすることが、俳優としての良き成熟となっていった。決して名優ではあるまいが、よき生涯であったろう。ああした行き方が可能だったのも、戦後という社会もそれだけ成熟したことの証しともいえる。その意味で、「新しき良き戦後」を体現した人だったのだ。

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