随談第389回 皐月晴れの芝居を

きちんとするべき芝居はしていながら、何だか舞台がもうひとつ活気づかないのを、芝居が寝入る、と言う。東京以外の芝居は見ていないから別として、震災以来、歌舞伎が何だか寝入っているような気がしませんか? 別にどこがどうと言って、悪いのではない。震災以前に比べて、成績が悪いわけではない。好舞台も、いくつかあった。俳優たちも、きちんとつとめている。しかし何か、カッと燃えるものがない。

気のせいだろうか。震災ボケか? たしかにそれも、間違いなくある。この欄にも何度も書いた通りだ。天災の方はともかく、もうひとつの、あの人災の方は、ものを言う気もしない。「あれ」はまさしく、われわれ現代の人間が抱え込んだ疫病神と言うしかない。落語の死神なら、うとうとしている隙に頭と足を素早くひっくり返してしまえば死者も生き返ることができるが、こっちの疫病神は、そういうわけにはいかないから、この鬱陶しさは、ナントカ建屋とかいうパンドラの函が開いてしまった以上、仮にいま現在の一件が終息したとしても、未来永劫、われわれの頭上から去ることはないのだろう。既に多くの人が言っているように、原子力というのは人間が神から盗んだプロメテウスの火であって、あの神話を作った古代人はそれを知っていたと考えるしかない。

とさて、ものを言う気もしないと言いながら、また繰言を並べてしまった。慌てて蓋をしたパンドラの函には「希望」だけが残ったのだそうだが、まあ、天災人災どちらをも通じて、今度のことでわれわれが改めて知った、最小にしてもしかしたら最大のことは、当り前のようにあるわれわれの日常というものが実は当り前にあるのではないという、ささやかな真理であるとも言える。日常を失わずにすんだ者は、せめてもこの日常を大事にすることが、いま一番なすべきことなのかも知れない。

と、ようやく話は振り出しのところに戻ってきた。歌舞伎の話をするつもりだったのだ。芝居をする者も、見る者も、いま自分の前にあるこの「日常」の尊さを思うべきなのだろう。市川猿翁という人は、往時の雑誌などでこの人についての記事などを読むと、エライ人なようでもあり、それほどでもないようでもあり、おなじ「名優」といってもたとえば六代目菊五郎などに比べると評価は乱高下がはなはだしいようだが、この人は、66年前の昭和二〇年八月十五日の終戦の日の直前まで、名目は慰問のためだが芝居をやっていた。東劇というれっきとした劇場で、『弥次喜多』をやっていたのである。つまり、広島や長崎に「特殊爆弾」が落ちても、芝居を続けていた。さすがに終戦になって一旦中止したが、マッカーサーが厚木に降り立った二日後の九月一日には、『弥次喜多』をまた演じ始めた。つまりこの人は、「戦前」のいちばん最後のぎりぎりまで芝居をし、「戦後」の真っ先に芝居を始めたのだった。じつは『弥次喜多』だけではなく『黒塚』もやったのだが、しかしこの場合、『黒塚』よりも『弥次喜多』をやっていたという方が、なんだか格好いいような気が、私などはする。役者魂って、こういうことなのかもしれないなあ、と思わせられる。

さて、早や、六月である。陰暦五月。皐月晴れとは、皐月雨、すなわち梅雨の晴れ間のことを言うのが本来の意味だそうな。皐月の鯉の吹流し、鯉のぼりは梅雨の晴れ間の皐月晴れの空に泳ぐから、ひと際明るく、威勢がいいのだ。明日から六月の興行が始まる。皐月晴れのような芝居を見よう。そうしてつとめて、この欄でも芝居の話をするようにしよう。

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