随談第390回 もう一度だけ、海老蔵のこと

昔、生計の足しに翻訳をしてわずかな稿料を稼いでいた時期がある。そのころに訳した本で、著者は文化人類学か何かをかじったイギリス人だったが、アフリカの現地民の社会形態と、先進の文明社会の形態とを重ね合わせて、要するに文明社会といったって未開社会と基本的な形態はまったく同じことであり、文明人とうぬぼれているわれわれもアフリカの現地民もすることの本質に変りはない、というような趣旨のことをいろいろ例を上げて証明しようという内容だった。細部はあらかた忘れてしまったが、中でひとつだけ、妙に覚えていることがある。

ある部族の酋長が死んで後継者を立てる必要が生じた時、後継者に指名された者は、それから暫くの間、姿を消さなければならない。何をするのかというと、一定期間、神殿に籠るのだという。やがて人々の前に姿をあらわす時、その人物は、もう、皆が知っていたこの間までの「彼」ではなく、酋長にふさわしいオーラをもった、昔の彼ならぬ「彼」になりおおせているので、皆、新酋長を受け容れるのだというのである。

昨今の政局の話をしようというのではない。(もっとも、日本の政界でも、新しく首相になった者がしばらく姿を隠して神殿に籠りでもしていたなら、こうも頻繁に首をすげかえられなくてもすんだかもしれないから、この話は、政局について論じる上でも、満更役に立たないこともないかもしれないが。)実を言うと、この前、海老蔵は舞台復帰をする前にしばらく成田山に参篭してくるといいと書いたとき、私の念頭にこのことがあったのは事実である。別に海老蔵がいま、何かの「長」になるわけではないが、きのうまでの「彼」とは違う「彼」になることが必要だろうと思うからだ。きのうの海老蔵とは違う海老蔵になったと思うことは、他人にとってだけでなく、おそらく海老蔵本人にとっても必要だろうと思うからだ。そんな形式などどうでもいい、と思う人は歌舞伎ファンにも似ぬ人である。人間の内面にも、やはり「型」は必要なのだ。歌舞伎に「型」が必要なように。

それにしても、テレビからエビゾウの「エ」の字も聞こえてきませんね。マスコミはもう、海老蔵のことなど忘れてしまったのだろうか。あんなに大騒ぎしていたのに・・・。

しかしこのシレッとした感じは気になる。災害や原発のことを思ったら海老蔵どころではない、というだけのことではなさそうな気もする。海老蔵の側も、来月には新橋演舞場で再起の舞台を踏むわけだが、いまのところまだ会見のたぐいも行なわれた様子もない。このまま、そっと舞台を踏んで、世間が気がついた時には、当り前のようにそこにいた、ということになるのだろうか。そういえば、謹慎、と言ったのはマスコミや世間が勝手にそう呼んだのであって、あのときの会見でそういう言葉が使われたわけではなかったような気もする。(そうではなかったろうか?)だから今度だって、別に「再起」でも「復帰」でもないわけか?

まあ、何も揚げ足取りをするつもりはないし、七月に舞台を踏むことについても、同じことを蒸し返す必要もないけれど、くれぐれも、つけるべき「けじめ」はきちんとつけて、その上で堂々と舞台をつとめてもらいたいと願うばかりだ。(どの道、「海老蔵、震災のどさくさにまぎれて舞台復帰」などといった見出しが、どこかの週刊誌に躍るだろうが。)

大相撲も、何とか「技量審査場所」という、神殿かどうかは判らないが、非公開という「禊」の場所に籠って「みそぎ」をすませたことにしたようだ。(いまでも思うが、あれはNHKが放送しないなら、せめてどこかの民放が放送すべきだった。スポーツ放送としてでなく、技量審査場所という社会的事件を報道する必要からである。アナウンサーも、いつもの相撲放送をする人たちではなく、ニュースを担当する人たちにさせればいい。多少不慣れだってそんなことは構いやしない。むしろ変になれなれしくなくてよかったかもしれない。と、そういう建前にして、その実、ファンを喜ばせるぐらいな粋を利かせる雅量が、NHK会長にはなかったのだろうか?)

夏場所ならぬみそぎの場所。禊ぞ夏のしるしなりける、ではないが、海老蔵もどうか、世人が等しく頷けるような「禊」をすませて、晴れて盛夏七月の舞台を晴れ晴れとした「いい顔」をしてつとめてもらいたい。『鏡獅子』、『勧進帳』の富樫、『楊貴妃』の高力士、『江戸の夕映』の本田小六。どれもいい役ばかりだ。いい顔をした海老蔵を見たい、と心から思う。

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