随談第398回 新作歌舞伎って何だろう?(その2)

八月の花形歌舞伎では、他に、第三部で橋之助と扇雀でやった『宿の月』というのが拾い物といっては失礼だが、案外、面白かった。昭和57年六月に新橋演舞場で亡き宗十郎と辰之助でやっていると上演記録にあるのだが、俄かに思い出せない。当時の『演劇界』を見ると、その月の演舞場は、松緑・杉村春子特別公演というのをやっている。そうだった、『牡丹灯篭』で共演したのが縁になって(いまもよくやる大西信行作のあれだ。初演は普通の文学座公演で、伴蔵の役は北村和夫だったのだが、杉村が松緑さんだったらねえと言い出して、殺生なことを言いやがると北村がぼやいたとかいう、まことしやかな噂がそのころあったっけ。あの脚本は、こういう経緯で歌舞伎の中に入って来て、いまでは誰疑うこともなき新作歌舞伎の一演目に成り遂せたわけで、『乳房榎』『豊志賀の死』と併せ、当代での円朝物三点セットの一として定着してしまった。つまり円朝原作に拠る「大西版・牡丹灯篭」である)、二人の蜜月時代が続いていて、当時ひとつの路線としてこの特別公演があったのだったが、その中の一演目として、『宿の月』が出ていたのだった。

宗十郎・辰之助という、いまから見れば大変な顔ぶれで、宗十郎なら奥方役などさぞかしよかったろうに、その後、歌舞伎の演目としては何故か、継子扱いでもあるまいが、閑却されてきたわけだ。『身替座禅』と同じ路線の恐妻物だが、あちらが三一致の法則ならぬ一夜の話なら、こちらは婚礼の日に始まり、夫婦の者の半生の話だが、平凡ではあっても人情の機微をうまくつかまえて、長唄による狂言風舞踊という枠の中にすっきりまとまっている。新作に当っての形式=フォルムというものの有難味がよくわかる。

狂言風舞踊といえば、これも今月、亀治郎の会で出した『博奕十王』というのも、かつて猿之助が春秋会で自作・初演した、同名の狂言を歌舞伎化したれっきとしたものでありながら、その後四十年、埃をかぶって眠っていたのを今度亀治郎が掘り起こした作品だという点、『宿の月』と共通している。これまた、狂言風舞踊というフォルムに、物語・内容が過不足なく納まっている。(ついでだが、この『博奕十王』をネタに亀治郎が少々悪ノリした感のある今度の会のチラシは、二、三の評判を聞くに、どうも今度の会自体について、印象よろしからぬ先入観を抱かせる結果になったようだ。亀治郎の計算違いか? 初日の昼の部を見たが、亀治郎の会にしては例年より空席も目についたのも、チラシのせいかも?)

閑話休題。さて、何故こんな話をするのかというと、前回の話の続きで、新作というものがなかなかうまくいかないのは何故か、ということを考えていた折も折だからである。前回は、折角のG2さんの新作の『東雲烏恋真似琴』が、つかまえどころはいいのに作者自身があれこれいじくりまわして自滅したような結果になってしまったのは何故だろう、というような話をしたのだった。つまりあれを、たとえば狂言風舞踊というフォルムを借りてみたらどういうことになっただろうと、『宿の月』を見ながらふと思ったのだった。

こういったからと言って、別に、何でもかんでも狂言舞踊がいいというのではない。狂言舞踊はひとつの例に過ぎない。ただ新作に当って、フォルム=様式というものの有難味?をもう一度考え直してもいいのではないか、ということを、このところの舞台のあれこれを見ながら思ったというまでのことである。そこでもうひとつ例を挙げると、これも今月九日、たまたま切符を貰って見た「趣向の華」という公演である。寡聞にしてこういう催しがあることすら今度始めて知ったのだが、「お馴染み」と謳っているところを見ると、しばらく前からの恒例のようで、藤間勘十郎の主催で、日本橋劇場で「袴歌舞伎」と称して、歌舞伎の若手御曹司たちを中心にした催しである。

作・苫舟(藤間勘十郎)、演出・市川染五郎とあって、『染錦絵化生景事』(そめてにしきえけしょうのけいごと)と題する五幕九場仕立ての舞踊劇風の芝居になっている。土蜘蛛をベースとして、色々お馴染みの素材の継ぎはぎで一応一貫した筋を仕立てて、若手花形を芯に、魁春だの東蔵だの翫雀だの孝太郎だの友右衛門、亀三郎亀寿あたりも出て要所を締めるという、相当の顔ぶれで、飽かせることがない。袴歌舞伎という通り、衣裳はつけず、色紋付に袴という素踊り形式といおうか。ところがこれが、結構面白い。パロディと言ってしまえばそれまでだが、構成に気が利いているので、手を加えればそれこそ納涼歌舞伎の一演目として優に成り立ちそうだ。お遊びとはいえ、趣向がツボをはずさないから見ていてヒヤヒヤするようなことがない。といって、馴染みのない者にはわからないという排他性もない。つまりここにも、フォルムがゆるぎなく存在しているわけで、その上での「お遊び」であり、すなわちこれも、ひとつの新作物として成立していると言っていい。

衣裳もメークもないだけに、梅枝の若女形としての、亀三郎・亀寿兄弟の立役としての素材のよさが如実に見えるのも興味深い。友右衛門が敵役としてなかなか立派なのもちょっとした発見といえるだろう。素顔(直面?)の魁春が栄御前みたいな格で登場し、辺りを払う概があった。客席は、花形諸優のPTAのような雰囲気もあり、たぶん、自分たちのお楽しみも兼ねつつ、納涼と勉強と、双方の意味合いを籠めての催しなのだろう。あまり世間に知られすぎて、チケット入手に大騒ぎ、などとなったりしない内が華であるのかもしれない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です