随談第399回 月遅れの訃報たち

少し前にも書いたと思うが、同世代だから応援するとか、好きだとかいう感覚を私は持ち合わせていない。あるとすれば、同世代ゆえに自ずから見えてしまう欠点や弱みゆえに、同病相憐れむ感情だが、それもどちらかというと、ナニ、エラそうなことを言っていたって兜の内廂が覗けているぞ、というように、つい、しゃらくさがってしまうことの方が多い。

先月の訃報のなかでマスコミが一番共感をもって取り上げていたのは原田芳雄だろうが、私は彼について語る何ものも持っていない。晩年の、まるで別人のようにすっかり爺むさくなってからの幾つかは、それなりの共感や面白さを覚えないでもなかったが、報道振りを見て、ヘーエ、こんなにエライ人だったのかと驚いたぐらいだから、これは批判以前で、いまの映画界についての私の側の無知と音痴を白状する以外の何物でもない。

たまたま先週、このところ毎夏の恒例になった一泊二日の病院ホテルへの検査入院の徒然に、今月号の『文芸春秋』を隈なく読んでいたら、「人声天語」なる坪内祐三氏の文章に原田芳雄の死のことがあって、ちょっと気を引かれた。氏は、原田の死に意外なほどショックを受けたのだそうだが、それはともかく、なるほどうまいことを言うと思ったのは、たいがいの人は「最初の人」すなわち映画俳優としての原田芳雄の新しさを口にするが、しかし同時に彼は「最後の人」でもあったのだ、という指摘である。つまり原田は、斜陽とはいっても映画界がまだ大手映画会社が製作していた時代の「銀幕」のスターとしての体験を持つ最後の人間でもあったのだ、ということである。そうして私は、映画というのはやはり「銀幕」が好きなのである。

いわゆるATGの原田については、先にも言ったように私は語るべき何ものも持っていない。従って、いいも悪いもないのだが、ただひとつ、これも坪内氏が「新しかった」という例に挙げている、「あのボソボソした台詞廻し」というのが私は苦手であって、彼以後、特に男優がみんな、ぼそぼそと「下に置いたような」(と昔なら言ったものだ)台詞を言うのを良しとするようになったのには、疑問を感じないわけに行かない。私の直感では、「存在感」という言葉が流行り出したのが、役者がセリフをぼそぼそ言うようになったのと軌を一にしてのことであるような気がする。役者の存在感というものが、『曽我対面』や『車引』で「デッケエ」と化粧声を掛けるように、歌舞伎だろうと映画だろうと役者にとって一番大切なことは昔から変わりはないが、近頃言うところの存在感なるものは、原田のボソボソ台詞と共に生まれてきたような気がする。(その前には、宇野重吉のボソボソ台詞というのが、絶大な信奉の対象になっていた時代があったっけ。)

つまり原田芳雄も宇野重吉もすぐれた俳優であったことは確かだとして、そしてどちらも、「存在感」ということで評価を得た俳優であったということを考え合わせると、新劇も映画もテレビも含めて、事はかなりややこしくなってくる。ナチュラリズムとリアリズムの区別などということまで話を広げると収集がつかなくなってしまうが、しかしこれは、「演劇論」というもの、「演技論」というものの、ブラックホールに片足のかかった厄介な問題であることは確かだろう。で、私の好み(と、ここでは敢えて言っておく)からすると、ボソボソ台詞の存在感というのは、どうも「うさんくさい」、少なくとも「ずるっこしい」ような気がしてならないのだ。(もっとも、原田や宇野の場合は一種の「高等芸」であったとはいえるだろう。)

もうひとりの同世代人の訃報といえば竹脇無我で、こちらの方が親近感は覚えるが、しかしここでわざわざ語るほどのものを持ち合わせているわけではない。

二葉あき子となると、全盛時代はこちらの幼少の砌であって、母がファンだったからラジオの歌声はもちろん、日劇でその舞台姿を見たのもかすかに覚えていて、そういう意味での懐かしさはあるが、彼女自身に対する思い入れというものとはそれは違う。

となると、私にとっての感慨といえば、先月の訃報欄で見たふたつの小さな記事ということになる。高城淳一といえば、まず大方はテレビ草創期の人気ドラマ『事件記者』での、安ポマードの匂うリーゼントスタイルの髪型で部下の山田吾一を怒鳴りつけてばかりいる二流新聞の記者の役にとどめを刺すだろうが、高城に限らず、当時はまだラジオドラマ全盛時代がダブっていたから、この世代の若い新劇人というのは、同時にラジオドラマの人気者でもあった。高橋昌也だとか名古屋章だとか、その他その他、私はまず、ラジオの声で知ったのだった。(いまもなお矍鑠としている久米明などもその生き残りである。)この辺りのことを、その内、もう少しきちんと思い出して書いておくのは意義があるかもしれない。

もうひとりの浜口喜博は、戦後の水泳界で古橋・橋爪に次ぐスターだった。ということは、全盛時代がオリンピック不在と重なった悲運の世代でもあるわけだが、中・長距離泳者の古橋・橋爪に対し浜口は短距離陣のエースだった。なかなかの男前でもあったから、現役を引退後は大映映画のスターになって、『ブルーバ』という(じつは正確な題名を思い出せなかったので『キネ旬』総目録という虎の巻を確認した)ターザン亜流の映画に主演したのが、当時われわれ中学生の話題だった。1920年代の金メダリストだったジョニー・ワイズミュラーがターザン役者としてハリウッドのスターとなって活躍していたのの、何匹目だかの泥鰌となったわけだ。もっともその後、役者としてこれといった仕事をした記憶はない。訃報を見ると、やはり水泳界ではそれなりのエライ人になっていたらしいから、他人事ながら安心した。

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