随談第404回 新派版『女の一生』

三越劇場で波乃久里子が布引けいを演じる『女の一生』を見た。再演である。つい二年半前、やはり同じ三越劇場で見たのだったが、ずっとよくなっている。初演の時だって相当の出来だったが、久里子がやはり、随分固くなっていた。新劇の、文学座の、信奉者からは神のごとくに思われている杉村春子の、それも極め付の当り役を勤めるのだ、という意識が、彼女をがんじがらめにしていたのも、無理はない。特に序幕の、堤家の座敷に紛れ込んだ、まだ小娘の布引けいは、そうした意識で、ということは自分が自分で作り出した杉村の亡霊にとり付かれでもしたかのように、がちがちになっていた。今度は、その呪縛から解き放たれている。

これは久里子の演技だけに関わる問題ではない。栄二の風間杜夫、仲太郎の中山仁、章介の安井昌二、しずの司葉子等をはじめすべての出演者が、再演の今回に至って、もう、杉村春子のとか、文学座のとか、新劇のとかいった意識から自由になって、自分たちの、新派の『女の一生』を作ることに喜びを見出している、といった風に見える。といって、まったく得て勝手にやっているのではない。先人たちの仕事に敬意を払い、学ぶべきことは学んでいることは間違いない。それでいて、すでに新しい船が船出をしていることは、歴然としている。そこがいい、というのである。

いうまでもないが、この劇は明治三十八年に始まって昭和二〇年に終る。西暦でいえば一九〇五年から一九四五年までの、ちょうど四十年間である。日露戦争さなかの戦勝気分の中で始まり、敗戦に打ち砕かれた中で終る。それが、布引けいの、いや登場人物ひとりひとりの人生と重なり合う。日本という国の、社会の歴史と、個人の歴史が重なり合う。作者は充分にそのことを意識して書いていることが、くっきりと見えてくる。真の主人公はつまり歴史であり、時間なのだ。布引けいの言うあまりにも有名なせりふ「誰のせいでもない、自分で選んだ道ですもの」という一句は、だから、けいの個人的述懐であり決意の言葉であると同時に、この四十年という時間の間に日本という国を、ああいうところからああいうところまで歩ませてしまった、誰かが言うべき、そして同時に、その時間をともに歩んだ日本人ひとりひとりが言うべき(きっと胸の内で言ったに違いない)言葉として、いま聞くと、聞こえる。それを言う久里子のせりふもいいが、同時にそれは、六十年も昔に死んだ作者が、久里子にそう言わせているのだ。

それにしても、こういう風に、絵巻物を繰り広げるように、時間を追って舞台が展開してゆく作劇法というのは、日本人が得意、というより、日本人が作ると、こういう風になってしまうのかもしれない。『源氏物語絵巻』だろうと、『生々流転』であろうと、『女の一生』であろうと、みな帰するところはひとつになる。人智や人為を超えた何物かを、見る者は感じざるを得なくなる。

作劇術というなら、これも今更のようだが、四十年にわたって繰り広げられる六幕がすべて、同じ場所であるということの効果を、今度見ていて改めて思った。見る影もない小娘だったけいが迷い込んできて、やがて女帝のごとく振る舞い、最後に焼け出されて焼け跡にひとり暮らす。最期の場面だけが、同じ場所だが焼け跡になってしまっているという効果を思いついたとき、作者は会心の笑みを洩らしたことだろう。堤家のこの座敷が、瓦礫と化した最終幕に至って、日本そのものの象徴でもあったことに、見ている者が皆、気がつくことになる。構成舞台などでなくて、リアルな装置であるだけに、その効果はひと際大きい。

もうひとつ、この前にも思ったことだが、とりわけ安井昌二などを見ていると、明治大正昭和という時代を、時代の雰囲気やその時代に生きていた人間のたたずまいや、その他生活に関わる何やかやまで、現在もっとも表現できるのは、新派の俳優たちだということを痛感する。新派の役者は花柳界の人間の役だけが巧いのではない。安井昌二の章介をみていると、伊達に新派の役者を何十年もやってきたのではない、と思わざるを得ない。石原舞子の和服姿の、まるで肩というものがないかのような、なで肩の姿を見ているだけで、女性の日常が着物であった時代の匂いが漂ってくる。

つい先日終ったNHKの朝ドラマ『おひさま』などを見ても、昭和十年代二十年代は、いまや当然の如くに時代考証の対象なのだ。してみると、思うにおそらく、高度成長の始まる昭和三十年代までは、新派の俳優たちの演じるべき領分であるだろう。などと、私が言うまでもなく既に彼らは気がついていて、すでに小津安二郎の『麦秋』にトライして成功、来春には『東京物語』をやるらしい。新派の将来の展望を占う命運はこの辺にかかっているといってもいい。

それにしても、プログラムにある公演日程を見ると、この一座の人たちが大変な過密日程をこなしているらしいのに驚く。九月一日から今月四日、つまり東京公演の前日まで、地方公演を、それもほとんど連日、昔でいう乗り打ちでこなしてきた上での東京公演なのだ。今月一日、先代水谷八重子の三十三回忌の集まりがあったとき、久里子達が居ないのでどうしたのかと思ったら、何とその日は、関西のどこやらで公演をしていたのだ。三越では約一ヶ月、これも連日、しかも十一時の部と三時の部の二回公演というから、ほとんど休みというものがなさそうだ。そういっては何だが、出演者の平均年齢はかなりのものと思われるのだが・・・

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